kitombo.com | 海賊の話 | 2005年5月2日 
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海賊の話
「ヴァイキング その12 アルフレッド3」

裏小路 悠閑
5月2日

 878 年のアルフレッドの勝利によって『その時歴史は動いた』のであります。
 この時アルフレッドが敗れて、ウェセックスまでもがデーン人の支配するところとなっていたら、以後に見られる様な英国民の独自性が形成されたかどうか。

 ロンドンは、その昔マーシア王国盛んな時代から、サクソン人には象徴的な意味を持つ土地でありました。アルフレッドはこの町を回復し、城塞都市として再建してヴァイキングの侵入路を遮断したことにより、イングランド人の利益を代表する最高君主と認められる様になって、政治的統一が進みました。
 886 年、勢いに乗ったアルフレッドは、デーン人との間でサクソン領とデーンローの境界線を策定し、協定 (Treaty of Wedmore)を結びました。
 この協定による境界線は、テームズ川からロンドンの東直近でテームズに注ぐリー川を水源まで遡り、そこからベッドフォードへ真っすぐ行き、更にウーズ川に沿ってローマ時代のウォトリング街道に至り、これ更にを北上すると言うものでありました。
 多少の出入りを無視して簡単に言えば、現在のロンドン市の東端から北西方に、リヴァプール辺りまで真っすぐひいた線が概略これに当たり、北と東側はデーンローであり、南と西側がウェセックス領となりました。この境界線を挟んでの文明的不連続性は強烈であったらしく、今の世でもそれは感じられると言います。

 デーン人支配者たちは、思いもよらぬ成り行きで洗礼を受けざるを得なかったのですが、彼らの世界では何事も集団的になされるため、指導層の改宗は民衆の改宗に繋がりました。面白いもので、仮にそれがやむを得ぬ仕儀により、あるいは強制されての改宗であっても、二代目以降の世代の者たちの信仰心の堅固さは、目を疑うばかりになることが多く、後の世の大航海時代になると世界中で見られるのですが、ここデーンローで同じことが起こっていたと言えましょう。とにかく、この時期のデーンローの民衆は、着々とキリスト教徒の道を歩み出しておりました。
 定着を志すデーンローの支配者にしても、キリスト教を導入することの利点は大きく、かつサクソン人との思想的な懸隔も小さくなって、互いに融和的な関係を結ぶことができる様になり、共存することでの利益も得られることになります。

 一方、ヴァイキングの侵略を受けて壊滅したノーサンブリアの成れの果てとして残るサクソン人の小王国ベルニシアは、現在のエディンバラ付近の地域にあったと考えてもらってよいのですが、南方にデーンローが出来上がってしまったため、飛び地となって孤立し、サクソンの歴史の本流から外れることになりました。
 その後ベルニシアは、ロジアン Lothian と呼ばれるのですが、スコッツとの関係を次第に深め、結局スコッツの歴史にのみ込まれて行きます。
 従来、スコット族はこの狭いアイリッシュ海を跨いで、アイルランドとスコットランドの双方に住んでいて、両者間の交流は盛んであったのですが、ノルウェーを発したヴァイキングが侵寇して来て、交通を遮断してしまいました。
 ヴァイキングの侵寇はこの地にも危機感をもたらし、ピクト族とスコット族の間の抗争は勿論のこと、同族同士の争いも絶えることがなかったスコットランドでも、開闢以来の合従連衡が進み統一王国らしいものが出来つつありました。

 九世紀末期のサクソン・イングランドを取り巻く政治地図は、大略以上の様になりましょうか。

 年若くして王となり、重責を負って凄惨な戦陣に多くの時間を過ごしたアルフレッドでありますが、生来の優しさは損なわれず、その独創性にはますます磨きがかかり、学者肌の気質も失いませんでした。
 戦野を駆け巡りながら、多くのことを成し遂げております。
 軍制改革のことは既にお話ししましたが、付け加えるなら、5ハイド以上の土地を所有する自由民と、自力で三度以上の商業航海をしたことのある者は、下級貴族に加えられ、騎士としての勤務が要求されました。(「1ハイド」は農民が一家族を養うに足るとされる農地面積で、営農様態や地方の事情により40エーカーから120エーカーまでの幅がありました。)

 王国の秩序回復のために、モーゼの十戒に始まり、サクソンの古くからの諸部族の掟を網羅編集して統一的な法としました。彼らの掟ではどの様な不法行為でも、身分に応じた身の代を支払えば罪を償ったことになるのです。アルフレッドの法もこの伝統に沿ったものでありますが、ただ一点、王に対する反逆だけは除外されて、身の代を支払っても赦免されないことになりました。
 アルフレッドの地位は確かなものになっていたことの証で、新しい封建思想の芽生えが見られるのです。

 昔のサクソン人と同様に、ヴァイキングは修道院や教会堂を掠奪の主目的にし、堂宇と書物を焼き修道者聖職者の頭を戦斧で割りつけました。こうして教会の組織の破壊とともに学術も技芸も荒廃し尽くしており、アルフレッドは「ラテン語で書かれた祈祷書を、英語に翻訳できる者がテームズの南側に一人でもいたかどうか」と言っております。
 彼は修道院と教会組織の復興に力を尽くし、デーンローに生き残っている学者たちを招聘して学校を建て、貴族や有力者の子弟の教育を始めました。
 アルフレッドは外敵の脅威に悩まされながらも、自身であのビード上人の「英国民の教会史」オロシウスの「世界史」グレゴリウスの「牧師の掟」や哲学書を、ラテン語を忘れてしまった国民の為に翻訳して配布しております。
 そして今、時々参照している「アングロサクソン年代記」は、外ならぬアルフレッドの発議によって編纂され始めたのです。

 こうした多方面にわたる改革努力の結果、アルフレッドとウェセックス王国は、デーンローに居残ったサクソン人は勿論のこと、デーン人にも尊崇され、大陸でも多大な敬意を以て語られる様になりました。
 ここにウェールズ出身の僧でアッセルと言う人がおります。彼はアルフレッドの宮廷に滞在して王の勉学を助けて厚遇を受け、後にアルフレッドの伝記を書きますが、その中で Alfred the Greatと書いたことから、以後はアルフレッドは大王と呼ばれる様になりました。
 アルフレッドのウェセックス王国の版図は、僅かにイングランドの半分ほどに過ぎませんが、その精神的な影響力は広くデーンローに及んでおりましたし、その業績を合わせ見る時、大王の尊称もあながち過剰だとは言えぬ様に思えます。
 899 年(年代記では901年)アルフレッドは密度の高い五十年の生涯を終えましたが、この父の下で育った息子や娘たちは、薫陶宜しきをえて立派な王者に育ち、デーンローに対して国土回復の事業を始めます。

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