将門の謀反の方は、彼が敗死すると殆ど間を置かずに「将門記」が書かれる程に、事の成りゆきを見つめていた者たちが地方にも中央にも沢山いて、詳細は終始あきらかなのですが、片や「承平南海賊」と藤原純友の乱となりますと、その人となりやその活動については、残っている同時代の記録は公私に亘って少ない上に断続的で、かつ互いに矛盾する記述ばかりですから、専門家の間でも諸説紛々です。
将門は私闘がエスカレートして謀反に発展した時、自ら新皇を僭称して中央政府の制度に倣い、独自の朝廷を設けて国司を任命するなど、独立国家の建設という明確な目的を持つに至っておりますが、純友の方は海賊になった動機も、最終目的は何であったのかも判っておりません。
純友の活動を将門のそれと並べて、英雄潭に仕立て上げようとする思いを持った人は大勢ありましたし、最近では観光の目玉に据えようとする試みもあるようです。
今までは記録の些細な部分の矛盾に囚われて、全体の流れとして納得できる記述がない様に思えるのですが、持論に合わぬ記述や矛盾する部分のどれかが間違いだとするのではなく、当時の人が書き残したことは全部本当だとしたら、案外首尾一貫した海賊の話になるのではないかなどと、不遜な考えにとり憑かれているわけです。
記録が少ないと言うことで、こと純友に関しては私の如きずぶの素人でも、証拠を突き付けられるまでは、勝手な事を言える余地があるわけです。
「承平南海賊」の活動の内で最も目をひくのは、承平四年の冬に伊予の国喜多郡の官庫が襲われ、救恤用の備蓄米三千石が掠奪された、と記録された事件であります。
略奪されたのは不動穀とされており籾米であった筈で、俵詰めで備蓄されていたとすれば、三千石の籾米は千立方メートルを優に超える総容積で、六千俵を数え十万貫400トンに近い重量があったのではないでしょうか。
実際にこの掠奪があったとした場合、千人からなる海賊集団がやって来ても、単純に言って一人当り六俵の米を運ばねばなりませんし、邪魔だてするものがあれば排除しなければなりませんから、相当に時間も掛かったでしょう。
各国には既に海賊追捕の官符が発せられていたのに、国司や郡の役人は国庫が破られ掠奪されるのを、ただ腕を拱いて見物していたのでしょうか。
この事件には胡散臭い所が感じられます。
この頃盛んに流れる海賊の噂を、奇貨居くべしとばかりに、不動穀の違法な流用の証拠の隠滅を図ったのではないか、と疑うのです。
この事件は、この後も何度か取り上げることになりそうです。
純友の出自や周辺の事情は、大略次の通りです。
藤原(中臣)鎌足の跡を継いだ不比等は、二人の息子と二人の弟の四人それぞれに家門を分ち、北家・南家・式家・京家としましたが、純友の時代の「北家」はまさに摂関家であり、それ以外の藤原氏は没落したり、絶えたりしております。
今から見れば乱脈とも言える当時の婚姻制度の故に、たとえ藤原北家の流れを汲む家系とは言っても、三四代もすれば途方もない数の子弟を抱えることになりますから、その総てが栄耀栄華を楽しむと言う具合には行きませんでした。何しろ世はまさに冗位冗官の整理、荘園の整理が盛んに行われるリストラ時代で、官職にありつこうと奔走する者たちが京師に溢れ、貫之も純友もそうした者の一人であったのです。
その一方で、父母が高い官位を持っていれば蔭位(おんい)の制といって、息子達は二十一歳になった時に自動的に一定の官位が授けられます。例えば父母の位階が一位であれば、長男は従五位下、次男以下は正六位上となります。親の位階が従五位の場合、息子は従八位の上或いは下の位が授けられます。
それが例え従八位からのスタートであっても、実は大変な事であったのです。
純友の父親・良範は藤原北家の傍流に生まれ、従五位下・太宰少弐(実務上太宰府の次官)を務める程には出世しておりましたが、運悪く早死にしましたので、三男の純友ら八人の兄弟の内、六男の純素一人を除いては官界に出ることもなく終わっており、没落貴族の悲哀を味わうことになりました。
ここに父・良範の従兄弟で藤原元名と言う人がおりまして、この人が伊予の国守に赴任するに際して、純友の何かを見込んで「掾」に推挙してしてくれましたので、承平二年(932)正月から承平五年の暮れまでの四年間を伊予の国司として勤務しました。
位階は低いし、紀貫之の様な才能があるわけでなく、都に帰ったところで先に望みのない純友は、任期が明けても帰京せず土着して勢力を培ったものと思われます。
「すみとも」と、何か優し気な名前と現代人のロマン好きが合わさって、「前伊予掾・さきのいよのじょう」等と言われると、凛々しい少壮官人や若武者を思うかも知れませんが、純友の生年は880年代であろうとされており、元名に拾われてようやく伊予掾に就任した時には既に四十代後半を過ぎていたのは確実で、ひょっとしたら五十代も半ばになっていたかも知れません。
その青年期をどのように生きて来たのでしょうか。
没落貴族の惨めさは世界共通であります。
純友は父とともに太宰府に在るとき、新羅海賊への対処に関わって兵事に何程かの経験を積み、あるいは交易や密貿易の仕組みを知り、以来ずっと海民との交流の上に生きて来たのではないでしょうか。当時盛んにやって来る唐商人がもたらす陶磁器などは、殊更に珍重されておりましたから、そう言った物を裏から手に入れることができれば、結構暮らしは成り立った筈であります。
「毒を以て毒を制す」
胡散臭い奴ではあるが、純友の経験や知識と噂に上る海賊との親密な関係は、承平南海賊の平定に活用できると踏んだ元名と太政官が、すんなりと彼を任官させたものではないかと思います。