カール大帝の治世下、フランク王国が最盛期にある時から、地中海沿岸はムーア人海賊が、北海と大西洋沿岸地方はヴァイキングが荒し回っておりましたから、主要な港には監視哨を置き、船隊を整備して大河の河口を守備させたと、大帝の伝記にありますが、彼の時代には未だそれほどの緊迫感はありません。
カール大帝のあとを襲ったルートウィヒがフランクの祖法に則り、息子たちに大王国を三分割して相続させてからは政情不安が常態となりました。
大帝の祖父が乗っ取ったメロウィング朝の没落も、遠因は国土の分割相続にあったのは承知していたと想像されるのですが、中々こうした因習から抜け出せないものなのでしょう、結局このカロリング朝も同様な経過を辿って滅亡します。
フランク三国間の不仲の故に、ヴァイキング対策も自然とおざなりになり、かつは何れの王国も当のスカンディナヴィア人を傭兵として多数抱え込むと言う、奇妙なことをやっております。
相続により西フランク王国の主となったカール禿頭王 (843~877) は、地理的必然からヴァイキング劫略の矢面に立つ羽目になりました。
845 年三月二十日、ラグナーと言う頭目に率いられたヴァイキングの一団が、百二十隻の船を連ねてセーヌを遡り、全く抵抗を受けることなく、両岸の町や教会を荒らしながらルアンを経てパリに現れました。
パリの守備側も重大な決意で戦ったのですが、目の前で百十一人の捕虜が吊られるのを見せられて戦意を喪失し、禿頭王はヴァイキングと交渉の末 7,000 リーヴルを支払うことで、内陸への更なる侵寇の停止と国外退去を買い取りました。
パリを引き払ったヴァイキングは、外海に出て沿岸全域で乱暴しております。
運のないこの王様は、この後出来る限りの防衛策を講じたのですが、貢納金を支払ったのが仇になり、この後も857年と861 年の二回にわたって、パリに攻め込まれております。

845 年のパリ侵攻事件の後、フランク本土でのヴァイキング活動はますます盛んになり、ロアール川流域はナント、アンジェ、トゥール、ブロア、オルレアンと教会修道院を中心に、余す所なく掠奪の的になっておりますし、アキテーヌ地方、つまりジロンド・ガロンヌの流域も同様の劫略を受けております。
沿岸や大河の流域の教区を支配する司教たちは、その多くは領主でもあったでしょうが、領民にヴァイキング除けの祈祷の仕方を教え、聖遺物や金目の物を持ってサッサと避難してしまいます。
850 年頃、教会の惨状を見かねた法王レオ四世は「教会を護るために戦死した者は天国に迎え入れられる」の旨の勅書を出しております。この聖勅が後の十字軍の熱狂に繋がっていきますが、それはまた後でとり上げることになります。
丁度この頃、ゴクスタッドで十九世紀に発掘され、その名を冠して呼ばれることになる、より大型のヴァイキング船が開発されております。その結果、彼らの輸送力と戦闘力が倍加し航続距離も伸びたのでありましょう、859 年にはジブラルタル海峡を越えて地中海に入り、現在のマルセーユの西 40 キロほどの所にある、ローヌ河口の島カマルグに腰を据え、240 キロも上流まで内陸を荒し回り、後にはイタリアに向かいピサや他の都市で乱暴の限りを尽くしました。
それにしても、この時代のヴァイキングたちの奔騰するエネルギーの源泉は何処にあったのでしょうか。彼らの壮絶な世界観だけにあったのでしょうか。そして掠奪した財物は何の為に、どの様に使ったのでしょうか。
少なくともこの時期には、掠奪と殺戮の記録ばかりで、彼らが商取引をしたと言う記録には出逢わぬのです。
ただ彼らの内には、掠奪行を通じて先進文明に感銘をうけると同時に、掠奪行為によって被る損失の大きさに愕然とした者もいたに違いなく、定住して農民に変身する者や、ノルマンディー公ロロの様に領土をもぎ取って、一流の封建領主になる者たちが出てきますし、スェーデン、ノルウェーには統一国家らしいものが現れてきます。
大陸で掠奪をし尽くした挙げ句に、物資に欠乏するとイギリス本土に渡って補充を計り、また大陸に舞い戻ると言うことを繰り返しておりましたが、アルフレッドの軍制改革によって防衛力の強くなったイングランドでは、次第に思うように事が運ばぬ様になっております。
885 年、彼らはジークフリートと言う者を頭目に戴いて、七百隻以上の大船団をもってセーヌ沿岸を荒しながら遡上し、十一月パリにやって来て、川面を埋め尽くしました。
当時、パリと言えば現在のシテ島が中心で、パリ伯オードが統治を任されておりました。島には城壁を巡らし、川下側には堅固な木橋を懸けて川筋の防衛線とし、右岸の現在のシャトレ広場の辺りには、塔を持った城塞が置かれておりました。
頭目のジークフリートが城内にやって来て、「パリを我々の自由にしてくれるなら、住民に危害を加えないし、オード伯と司教の財産には手をつけないと約束する」と申し入れ、当然ながら拒否されました。
長期にわたる篭城戦が始まり、防衛側はよく防いだのですが、攻撃を受けて弱っていた橋は春の増水で流され、やがて食糧は欠乏し、お負けに城内に病が流行して多くの者が死に、埋葬する土地が無くなるほどでありました。オード伯自身が嵐の吹き荒れる夜に囲みを破って脱出、何度目かのイタリア遠征に向かうシャルル肥満王(カール三世 876~887)のもとへ走り、救援を求めました。
何ほどかの援兵とともにオード伯は戻り、やがて886 年の末には目映いばかりの堂々の出で立ちで、皇帝シャルルが雑多な言葉を話す大部隊に護られて登場し、モンマルトルの丘の麓からシャトレ間近にかけて陣を張りました。
シャルルは大軍を擁しながら、なぜか決戦には及びません。
彼はヴァイキングたちと交渉に入り、あろう事か内陸のサンス地方での掠奪を公許した上に、7,000 ポンドに相当する銀を差し出して、翌年の三月までにフランクの土地から退去する約束を取り付けました。
肥満王は期待されて即位し、一時は統一フランクの皇帝になったのですが、多病な上に癲癇にも悩まされていたようで、荷が重すぎたのでありましょう、周りからは王者皇帝としての気骨や能力に欠けると評価され、現在もそのように見られている気の毒な王様です。
ヴァイキングの侵入を効果的に防げなかったことが禍となり、887年、王位を甥のアルヌルフに奪われ、二ヶ月後の888年一月に没しております。
この後、アルヌルフは後にドイツとなる地域を支配し、フランスとなる部分では、このヴァイキング事件を契機に隆盛となったパリ伯オードが即位し、パリは昔日にまして繁盛します。