kitombo.com | 海賊の話 | 2004年5月10日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その9 藤原純友」

裏小路 悠閑
5月10日

 海賊の大頭目になるほどの能力を持った男が、不遇で惨めな青年期に何を考え、念じていたのでしょうか。令制での「掾」の官位は七・八位であり、親が生きていて相応に位が高ければ、駆け出しの小僧ッ子が就ける官位官職であります。
 後の彼の行動から考えると、世の中の仕組みに憤りや恨みを持ちながら、あわよくば功績を挙げ出世して中央政界に乗り出し、権門の一員となることを夢見ていたのではないでしょうか
 平将門と組んでクーデターを起こし世直しをしようとした、と言う話は面白くはあっても、世直しをするためには、現政権を構成している公卿や貴族を全員排除しなければならぬ上に、広く深く根を張った既得権を持つ階層の処理も適切に行わなければなりません。
 将門の方は幾分違うのかも知れませんが、少なくとも純友に与力するのは、寄せ集めの強盗団そのものでありましたから、全く話になりません。
 そしてこの二人には、「治国平天下」に行きつく経綸が見られないことが致命的です。

 ここでまたもや承平四年冬の、不動穀三千石が掠奪された事件に戻ります。
 『この事件は、純友が国司在任中に起こっております。』
 勘ぐれば、官人としての立身出世を遂げて没落貴族の群から抜け出し、中央政界に乗り出したい純友は、この胡散臭い事件に関わっていたがために、海賊一味との関係が抜き差しならぬものになってしまった、のではないかと思えるのです。
 退任後に前伊予掾・純友の名は、瀬戸内海全域に鳴り響いていたようですし、何しろ三千石の官米の掠奪という大事件ですから、中央官界にあっても裏の事情を知る者がいて、藤原純友はすなわち海賊であるとしても変ではありません。
 国守・元名までもが、同腹であったかどうか知る由も在りませんが、純友の勤務評定が海賊追捕に実績をあげたと言うものであっても、「あぁそうですか」と太政官の反応は素っ気ないものでありました。

 元名の後を引き継いだのは、文人政治家・紀叔人でありましたが、海賊の討伐などと言うことには不向きであったらしく、太政官は思う様に平定できない海賊騒動にケリを付けようと、承平六年(936)三月、海賊の間に顔が効き、人気も信頼関係もあるらしい純友に対して「海賊を追捕すべし」との宣旨を下しました。
 太政官の思惑通り、純友は流血騒ぎもなく集団での投降の約束を取り付けました。
 それから間もなく、その年の六月、国守・紀叔人が追捕南海道使を兼務することになり、純友は紀叔人の指揮下に入りました。
 紀叔人の追捕使就任時には、純友の働きですべてお膳立てが済んでいたのです。

 元衛府舎人を中核として、六年の長きに亘って瀬戸内海全域を荒し回って来た海賊どもは、叔人の寛大な人柄を聞き伝えて一斉に投降して来たと正史にあります。
 記録は更に、官船を襲い官庫を破って備蓄米を掠奪するなど、数々の大罪を重ねて来た海賊どもの罪を不問にし、田地や島を班給して種子を与えて農耕の術を教え、衣食を与えたとしております。
 投降して来た海賊の首魁には、紀秋茂、津時成、小野氏寛など名家につながる地方の豪族の名前が見えます。津氏は古来摂津の国にあって、海事に深いかかわりを持つ氏族であり、紀氏も小野氏も皆さんよく御存じの、西国では由緒ある家系です。

 叔人はその功績により、一階級上げて従四位下に叙されておりますが、この度もまた、最大の功労者である純友や、手足となって働いた判官クラスの者達や下級武官、そして協力したであろう海民たちの功績は、彼らの再三のアピールにもかかわらず、黙殺されております。
 純友は勿論ですが、恩賞に与れなかった彼の党類も同様に憤懣を抱え込んだまま、受領に対しては弱い立場の公田請作者となって、瀬戸内海の各地に土着しました。

 叔人が持ち前の文筆の才を発揮して、彼らの勲功を横取りしたのだと言う人もおりますが、後に純友が海賊の首魁と公式に認定される様になってからも、叔人は純友をしばらくの間はかばい続けておりますし、また純友も叔人に恨みを含んでいる様な行動をしておりませんので、叔人自身は配下の勲功を正しく報告していたが、中央政府内には「純友すなわち海賊」と反対するものがあって、握りつぶされたと言うことではないでしょうか。

 海賊の側からすれば、必ずしも叔人の人柄を見込んで投降したわけではなく、何か実利的なものが得られそうだから、純友を信用して妥協したのでありましょう。
 田地や島を班給して種子を与えて農耕の術を教えたとありますが、灌漑用の水利が整った耕地には既に権利者がいたでしょうから、右から左へそれほど簡単に田地を分け与えることが出来たのでしょうか。元衛府舎人たちには帰る土地があったかも知れませんが、これまで海に関わる事だけで生きて来た海民たちに対して、新田を開けと言うことであるならば、莫大な労力と費用を捻出しなければ成りません。
 摂関家の政府は、西国からの租税や貢進物を運び込まねば、彼らの貴族文化が崩壊し、国庫が破綻する危機に直面しておりました。かてて加えて実質的には摂関家の独占事業である「鴻臚館貿易」の流通路の確保もまた重要でしたから、叔人・純友のチームには最大限の裁量権を与えていたものでしょう。  投降海民たちには、運京や貢進物輸送に、ひょっとすると鴻臚館貿易にも部分的に参入する権利を与えて宥めたのではないでしょうか。

 この様にして、承平南海賊の騒動は治まり、一二年の間は平穏に過ぎた様です。

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