kitombo.com | 海賊の話 | 2004年5月17日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その10 藤原純友」

裏小路 悠閑
5月17日

 「純友は任期が切れても都に帰らず土着し、日振島を根拠地として海賊を従え」と前掲の教科書に書いてあります。
 一読したところ、日振島に土着した様に見えますが、この島は豊後水道の東側に位置していて、瀬戸内海の幹線航路に出る為には相当な距離を、しかも速吸の瀬戸と呼ばれる潮流の激しい海峡を乗り切って行かねばなりません。
 また、今でこそ海水から真水を得る処理施設があって、島民の生活を支えておりますが、累々たる岩組みによって成るこの島は、元来真水の確保の難しい所で、農耕による自給はままならず、もし一族郎党のみならず配下海賊の大所帯の長期に亘る滞留があったとすれば、食糧はもちろん水にも困窮する事態に陥るのは明らかで、戦略上の利点は認められません。
 従って恐らく、切羽詰まった時に備える後方基地くらいにしか、利用出来なかったのではないかと思いますが、ただ対岸の豊後の土豪で純友の副将格として最後まで勇猛果敢に闘った佐伯是基や、日向の在地勢力の反国司感情を掻き立てて糾合し、太宰府攻撃に参加させる為の工作策源地としての価値はあったと思います。

 純友が伊予の国の何処に土着したのか、判らないのです。
 大鏡に言う「純友は西国の海に、大筏を数知れず集め浮かべて、土を盛り木を植え沢山の田を作って住み着き・・・」と言うのは、米の成る木を見たことのない雲上人の言うことであり、今の世ではどちら様も笑い飛ばして、お終いになさるでしょう。
 降水量の少ない伊予・讃岐の瀬戸内海に面した国々では、確保できる灌漑用水の量によって田畑の面積が決まってしまいましたから、人々が海に出ることは必然の結果でありました。

 国司が在任中に蓄財に励み、その広大な権力によって民を使役して、湿地なら排水を、乾燥地なら溜め池を掘り水路を設けて新田を開き、あるいは貧窮民から土地を買いあげるなどした上で、土着することは早くから行われておりますが、純友の場合は土地だけではなく、収益性の高い海事にも目が向けられていたでありましょう。
 若し瀬戸内海の交易路に影響力を保ったまま土着しようと考えるなら、瀬戸内海のほぼ中間地点に当たる尾道と今治を結ぶ線の周辺が理想的です。
 伊予の掾として在任中に勢力を扶植したのであれば、それは国府のあった今治付近であろうし、この海域の複雑な地形と殊更に激しい潮流のあり方についての十分な知識と経験を蓄積することが出来て、後々大いに役立ったと思います。
 当時の平均的な寿命からすれば、土着の頃の純友は既に老境に差し掛かっていて、三人の息子を持ち、郎党とその家族を養っておりましたから、海陸に確りした地盤を築き上げておこうと思ったのではないでしょうか。思惑通りに事は運ばなかったのは無念であったでしょうが、国守・紀叔人との円満な関係の維持に勤めたと思います。
 天慶二年に、純友が兵を率いて海に乗り出し、賊首として純友が反政府行動を取ろうとした時、叔人は思い直す様に説得しており、効果がないと見るや中央政府に純友の召し出しを要請しております。
 この一事によっても、承平六年の紀叔人のために成し遂げた海賊平定の後、純友は叔人の間近にあって相応の待遇を受け、対海賊政策や海運・製塩についての助言をしていたのであろうと想像できるのです。
 と言うことで、掾の任期が明けると「日振島に土着」はなかったと思います。

 承平南海賊の活動が盛んな頃、坂東の地にあっては既に、出自も様々な元国司の土着者の支配地が複雑に入り組んでおりました。源氏と平家の土着者たちは互いに姻戚関係を重ねて紛争を避け、協力しあって勢力の拡大を図り、揺るぎない繁栄の基盤を築きつつあると思っておりました。
 平家一門の内で異端児と目されていた将門が、源氏の土着者との間で土地紛争を起こした時、本家筋の伯父・平国香や良正が源氏に味方したため、一門の間にまで騒動が拡大した結果、勢い余ってこの二人をも攻め殺してしまいました。
 彼は臣従していた左大臣・藤原忠平を頼りに、敵方に先んじて都に馳せ上って陳弁につとめ、承平七年七月、朱雀天皇の元服の恩赦に与り、赦されて帰国します。
 この様にして、表面上「承平南海賊」と将門の起こした騒乱は、何となく落ち着いた様に見えましたが、官・民間にある土地支配への対立には、根本的な解決は何もなされておらず、大乱への圧力が日増しに高まっていたのです。

 承平七年十一月、富士山が大爆発を起こしました。
 承平八年四月、畿内を大地震が襲い、都は甚大な被害を蒙りました。内膳司(宮内省に属し、天皇の食事の調理と試食を司る役所)の建物が倒壊して圧死者が出たのを、陰陽寮が占って「東西に兵乱が起こる」と予告しております。
 その情勢分析の確かさは褒められて然るべきですが、その所為もあってか同年五月、天皇が心身に変調をきたして憂慮すべき事態に陥り、右大臣・藤原恒佐が死去しました。
 政府は厄運から逃れる為に「天慶」と改元しましたが、打ち続く地震にくわえて大雨が降り止まず、京市中は一面氾濫原と成りました。
 天慶二年二月、武蔵の国に権守(ごんのかみ 国守赴任までの臨時官)興世王と、介・源経基が赴任して来て、安立郡の郡司から違法な貢ぎ物を取り立てようとして拒否され、郡内を荒し回り掠奪を行ったことが武力衝突に発展しました。ここに頼まれもしないのに将門が調停に乗り出し、誤解を生んで叛乱の本番の幕が開きました。
 同じ年、西国は激しい旱魃に見舞われました。
 不作の時、生産者が税負担の軽減を望むのは当然で、為政者は事情を斟酌してそれに応ずるのがあるべき姿ですが、この当時善政を布こうとして赴任して来る国司は皆無でありまして、紛争を起こします。
 国司の圧政に苦しむ民百姓が、将門や純友のような「侠気」に富んだ者たちの下に集まって来て、遂には暴走したのが「承平・天慶の乱」でありましょう。

 騒然とした世を外に、宮廷や貴人の館では、夜を日に継いでの宴会や歌合わせ詩合わせが盛んに行われ、紀貫之は流行りの繪屏風に歌を書き添え、評判を呼んでこれが身過ぎともなり、かつは猟官に奔走しておりました。

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