サクソンの諸王国は、同根の先祖を持ちながら、往古の遺恨を晴らすべく争い、新しい遺恨を再生産し続けて分裂していたのですが、ヴァイキングの激しい襲撃が大同団結の契機となったと言えましょう。
更に言いつのれば、ヴァイキングの襲撃は、イングランドに「職業的」軍人階層を形成させました。イングランドの諸王は押し並べて皆、常備軍を維持するだけの収入を持っておらず、ローマの軍団の様に給料を払うことが出来ませんでしたから、土地を与えてこれに換える手法を取らざるを得ず、封建社会への一歩を踏み出す切っ掛けとなりました。
ウェセックス朝は、あの大陸帰りのエグバートに始まり、六代目のアルフレッドが基礎を堅め、彼の子や孫が武力や政治力を駆使してデーンローを降し、国土の回復につとめ、940年頃には大略目的を達成し、十三代目のエドガー (959~975 )の時代には最盛期を迎え、王権が非常に強くなった様に見えます。
フランク王国では国土の大きなこともあったのでしょうが、代替わりの度ごとに国土を分割相続するのを習いとしておりましたが、アルフレッド以来のウェセックス朝では分割相続は行われておりません。
勿論、相続を巡る紛争や内戦や暗闘は数多く見られますが、生活の安寧を願う国民は強い国王を望んでおりましたから、賢人会議 witan はその目的には合致した王を選び、ともかくも約二百年の王朝が続いたのであります。
この二百年は長いのか短いのか、今では多彩な出来事を圧縮された資料で一遍に見てしまいますので、判断がつかないのです。
江戸時代の長さや、明治維新から現在までの時間経過を考えると、どうなんでしょう。
デーンローを形成したデーン人たちは、既に耕地を手に入れ養うべき家族を持っておりました。
今や彼らは、同族のヴァイキングに襲われる立場にあり、彼らも強い統治者を望んでいたのですが、実際には定着が進むに連れ、当然の様に各部族の利益が優先し、部族の利益を護るために部酋たちは領地に垣を巡らし、各々が好みに応じて王や侯・伯を名乗ります。
こうして互いに連携のない小邦がデーンローの内に乱立し、かつて、アングロ・サクソンの土地を蹂躙する際に見せた民族の統一性は、便宜的戦術的なものであったにせよ、土着が始まると忽ち瓦解して先祖帰りをし、部族間の紛争に明け暮れるのでした。
十世紀のこの時期、ヴァイキングの発源地スカンディナヴィアでは群雄割拠の時代で、デンマークもノルウェーも独立した国家建設のため内紛が続いていて、ヴァイキング活動は低調な時期に当たります。
侵寇の沙汰やみと、デーンローの政治的不統一は、ウェセックスにとって失地回復の絶好の機会であり、加えて、ウェセックス王家には格好の人材が続いて現れるという幸運にも恵まれてもおりました。
柔軟な思考の出来るアルフレッドの後継者たちは、ヴァイキングとの戦闘を通じて会得した戦術を駆使し、デーン人の戦術単位となっていた borough system までをも取り入れて、最後までポケットとして残り頑強に抵抗するノッティンガム、レスター、リンカーンなどのデーンローを降し、国土回復は完成しました。
borough は現在は州 shire として残っていて、リンカーンシャア、ベドフォードシャア、ケンブリジシャなどの名前で知ることが出来ます。
デーンローの住民にとっても、強い王に服することで部族間の紛争が避けられ、安全が保てるなら有り難いことです。彼らは親たちの世代が戦斧で勝ち取った土地に定着し、あるいは灌漑を施し森を切り拓き、あるいは湿地の排水を行って耕地を広げて改良し、恒久的な町を建設する時間を与えられたのです。
初期の狂瀾怒濤の掠奪の後に、この島にやって来たデーンローの定着者たちの目的は、耕作に適した土地を手に入れることにあり、スカンディナヴィア帝国を建設しようとしていたわけではないのです。
従ってデーン人の太守の下でデーンの法が行われている限り、ウェセックスの緩やかな支配は受け入れ可能であり望ましいことであり、彼らのキリスト教への改宗が進むに連れて、アングロ・サクソン族との同化も比較的円滑に進みました。
ケルトの地、ウェールズとスコットランドは、独立を保っておりますが、その王たちもウェセックスの覇権を認めるようになりました。
ブリテン島は、ここに開闢以来初めての統一を見ることになりました。
興隆するウェセックスの王家は、大陸の貴顕諸家と盛んに誼を通じます。
国家の威信を誇示するとともに、安全保障の意味もあったのでしょうが、アルフレッドのあとを継いだエドワードなどは、娘達を 916年から 930年にかけて、次々と大陸に輿入れさせております。
一人はシャルル単純王に嫁ぎ、彼らの子はルイ四世でありますし、一人はフランクの大公に嫁し、また一人は後に神聖ローマ帝国皇帝となるオットーなる若者に嫁ぎ、更に一人はアキテーヌ公ルイに嫁いでおります。
また逆に、大陸の方からも縁を求めてやって来る者も数多くありました。
丁度この時期、ヨーロッパの住人には、そんな所があるとは夢想もしない遥か東の土地で、承平天慶の乱と言うものが起こっていて、藤原純友とか平将門と名乗る者たちが、天下を騒がせておりました。勿論、日本の歴史にとっては重大事件でありますが、同じ海賊の名の下に並べてみると、純友たち瀬戸内海賊の如何に可愛らしく見えることか。
小休止のあと、ヴァイキングたちは新たな目的を持って再登場し、980年代からは以前にも増して荒々しく、更に奸智に長けた行動を始めます。