kitombo.com | 海賊の話 | 2004年5月24日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その11 藤原純友」

裏小路 悠閑
5月24日

 旱魃の天慶二年の秋、承平南海賊の平定に純友に与力して、後に土着した藤原文元と三善文公が、備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹の両国司と紛争を起こし、純友に加勢を求めて来ました。
 この救援要請を断った場合、海民たちの信頼を頼りに伊予の国に土着することを決意して、この数年に亘って営々として築き上げて来たものを、一夜にして失うに違いなく、余生の惨めさが純友の脳裡をかすめたでしょうし、海民集団の首領としての面目もあったでありましょう。
 叔人の説得を振り切って海に乗り出しました。

 藤原文元らの紛争の原因は明らかではありませんが、国司たち自身の為の収奪や権柄づくの徴税の外に、左大臣・忠平ら摂関家が瀬戸内海の交易を独占する目的で、国司を使って前回の海賊平定の際に結ばれた協定を一方的に破棄し、海民の生活権を脅かしたのではないでしょうか。とにかく深い恨みをかっていた様です。

 天慶二年(939)十二月十七日、左大臣・藤原忠平が日記に「伊予の国より、純友が海上に出ようとしているので、上京する様に命令を出して欲しいとの要請があった」と記しております。
 先年、陰陽寮が卜占の結果「東西に兵乱起こる」と揚言して以来、将門と純友の事は都人たちの念頭を離れなかったのではないでしょうか、十二月十九日には、諸卿は議論の末に「藤原純友乱悪と定め申し」ました。
 この頃都での群盗騒ぎや放火事件は、すべて純友の配下や使嗾された者たちの仕業との噂が立っておりまして、当然の事乍ら、為政者たちの間での純友の評判は地に墜ちていた様で、後に伝え書かれたものによれば、「伊予掾藤原純友は、彼の国に居住して海賊の頭となった。彼は生来心がねじけていて道理に反することを行い、礼節も節度もない。多くの党類を率いて南海・山陽の国に踏み込んで、乱暴狼藉を働き秩序を乱している。非理非道を旨とする輩が純友の勢いの盛んなことを聞いて、付き従う者が多くあり。官物を劫略し官舎を焼くことを日常の勤めとしている」と散々です。

 十二月二十一日には、「純友を京へ召還せよとの太政官符を、摂津・丹波・但馬・播磨・備前・備中・備後に下された」とあります。宮廷も公卿たちも自分達の権威には絶大な自信を持っておりましたから、とにかく京に呼び寄せて教え諭せば、恐れ入って改心するだろうとの、甘い考えであったのでありましょう。
 公卿と呼ばれる高級官僚の間には、地方の事情に明るい者がおらず、情況の把握が出来なかったのであります。

 同じ年の十一月、将門が常陸の国府を攻略、十二月には上野・下野の国府を攻略した挙げ句に、桓武天皇の五代の孫を言いつのり、新皇を僭称して除目を行いました。
 もうこうなれば非の打ち所のない謀反です。
 十二月二十二日、将門坂東占領の第一報が信濃の国からもたらされました。

 十二月二十六日、摂津国須岐駅(現在の芦屋)で備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹が、純友の党類・藤原文元らに襲われ虜になったと報告されました。

 十二月二十七日、下総豊田郡の兵が将門を奉じて謀反、と報告あり。
 十二月二十九日、上野・下野の国司が公印と官庫の鍵を奪われた上で、都に護送されて来て詳細を報告しました。

 宮廷人・高級貴族たちは別世界に住んでおりまして、地下人の困窮や悲惨混乱には一顧だにせず、日々遊び暮らしておりましたから、東西から矢継ぎ早に兵乱と謀反の報告が舞い込んで来ると、不確かな地理感覚しか持っていないこともあって、明日にも都が兵火にかかるのではないかと怯えたわけです。
 純友が伊予の国を出てからの行動は明らかではなく、須岐駅の騒動の時に現場に居たのかどうかも判らないのですが、都では、純友が将門と協同して攻め上ってくると理解していた様で、将門記には「京官大驚し、宮中騒動す」とあり、その周章狼狽振りがよく表わされております。
 明けて天慶三年正月、混乱の中で朝廷は二正面作戦を回避するだけの理性は持ち合わせていた様で、"MASAKADO FIRST"を決し、純友については戦意を鈍らせ時間稼ぎをするために、四年前の承平海賊の平定の勲功を認めたことにして、純友を從五位下に叙し、あわせて主だった配下も任官で篭絡してしまおうと、摂津須岐駅で備前介を襲った藤原文元を、鎮守府副将軍に次ぐ地位の軍監に任じております。
 位を授けて懐柔するという術策を巡らすのは朝廷の伝統で、コストを掛けずに絶大な効果があり、莫大な礼物も期待できるのです。
 文元の方は任官を拒否するだけの根性とセンスを持ち合わせておりましたが、純友は五六階級も一気に飛び越えての特進に、マンマと引っ掛かり喜んで位記を受け取ったと報告されております。この様な朝廷のやり方の危険性について確かな認識を持ったのは、おそらく源頼朝が初めてではないでしょうか。

 実際にこの時には既に、朝廷では将門の討伐にあわせて、純友への叙位が効果がなかった場合に備えるとともに、坂東平定後には直ちに純友ら西国海賊の討伐を実行することをを決意していて、人事も決まっていたのです。
 対純友作戦に山陽道追捕使として任命されたのは、小野好古という人で、小野篁の孫で、小野道風の兄に当たります。

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