kitombo.com | 海賊の話 | 2004年5月31日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その12 藤原純友」

裏小路 悠閑
5月31日

 天慶三年(940)年頭の動きを纏めると次に様になります。

 正月 一日、小野好古を追捕山陽道使に任命。
 正月十六日、追捕使・小野好古出発。
 正月二十日、藤原文元を軍監に補す。
    同日、備讃瀬戸にて多数の兵船と備中軍が戦い、備中軍敗走の報告あり。
 正月三十日、純友を從五位下に叙すことを決定。
 二月 三日、純友の從五位下の位記を手渡すため、使いを出す。
 二月 四日、小野好古の進撃を一時停止させる。

 純友には前回の海賊平定の成功体験が鮮やかに残っていて、この度の騒動も自分が一声かければ収まりがつくと思っていたのではないでしょうか。傍流とは言え摂関家に繋がりがある上に、今は從五位下の官位を持つわけですから、重みが違います。
 個人的には、受領階級にはなったし、息子たちにも蔭位の制により官位が貰えることになって大満足だったでしょう。
 「悦状」を差出し、お礼奏上のため武装兵を率いて都に上ろうとさえしています。

 世上、純友の配下と目されていた者たちや、元海賊たちにしてみれば、承平の騒動の折には純友の斡旋するところに従って妥協し、或いは投降したのですが、利益が無かったばかりか、反って国司側の締め付けが強くなったと感じていたと思います。
 純友が今回の叙位で独り舞い上がってくれて、海賊集団に分裂が起これば、政府側の思惑通りになります。

 一方、将門は占領地を広げて既成事実を積み上げておき、中央政府と交渉して和解し、無罪放免とあわよくば治安維持の功績を言い立てて、叙爵までもさせる積もりであったらしいのですが、政府の将門討滅の意志は堅く、将門を討ち取った者には五位以上、副将格を討った者にはその勲功に応じて官爵を与えることを約束しましたから、藤原秀郷(俵の籐太)や父・国香を殺された平貞盛は勿論のこと、それまで成りゆきを窺っていた近隣国の土豪たちが、勇躍して戦線に参加して来ました。

 兵農が未だ分離していない時代のことであります。
 天慶三年二月、将門は農事に就かせるため、八千を呼号する手兵のほとんどを郷に帰還させていたため、貞盛と秀郷の集めた四千余の軍勢に攻め立てられた時には、手許には千人足らずの兵が残るのみで、味方の再招集が間に合わず、敗死しました。

 二月二十五日、将門が射殺されたとの報告があったと忠平が日記に記す。
 三月  二日、純友が位記を喜んで受け取ったと報告あり。
 三月  五日、将門の敗死の件、正式な報告があった。

 二月と三月をかけて坂東の残敵掃討を完了して、五月十五日、征討大将軍が都に凱旋しました。
 将門の敗死は、純友にとって誤算であったかも知れませんが、外にも彼の思惑が外れることが起っておりました。
 純友が自身の叙位に奏慶だの何だのと浮かれている間に、備讃瀬戸を挟んで備前・備中では藤原文元が、讃岐では藤原三辰が共に任官を拒否した上で、暴走して騒乱を広げそれぞれの土地を実効支配するまでになっておりまして、純友の統制力が行き届いていないことが窺えるのです。
 こうした事態があるにも拘わらず、政府側とはあまり大きな衝突は起こっていないのです。恐らくこの時期の政府は、兵を集め、兵站を調え、海賊集団の切り崩し工作をし、日和見をしている海民を報賞を約束して取り込む等々、見えない所で大車輪で動いていたのだと思います。
 六月十九日に至って、政府は「凶賊・藤原文元ら純友の暴悪士卒の追捕」の官符を小野好古に下して、備前・備中の制圧を命じました。
 純友は叙位の奏慶の上京を拒否されたことに合わせて、この度の官符の公布に政府の意志を見せつけられて、思惑が完全に外れたことを、十分に思い知ったことでしょうが、政府側は純友を孤立させ、苦境に追い込んで海賊集団の分裂を画策しておりましたから、未だ純友個人を名指しで追捕の対象とすることはしておりません。
 策略に乗せられた純友は、未だに政治的な決着に望みを繋いでいた様です。

 政府側には絶対の権威に基づいてなされる、官爵や報賞の授与という効果絶大な武器がありました。対する純友と配下の主だった者たちが背負ったことと言えば、多数の女子供を伴って参加している手下の離反を防ぎ、戦闘集団として纏め繋ぎ止めておくためには、武器のみならず衣食と薪水の補充を途切れさすわけには行かず、その為には掠奪を続ける以外に方法が無い、と言う宿命でありました。
 海民、或いは海賊と言えども、活動の基地としての陸地が必要でありますが、戦いが討伐軍に有利に展開する過程で、基地である湊や入り江の隠れ家が、次々と敵の手に墜ちてしまうと、海賊の掠奪行為は狂気を帯びて来ます。

 

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