kitombo.com | 海賊の話 | 2004年6月7日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その13 藤原純友」

裏小路 悠閑
6月7日

 天慶三年八月、山陽道を進撃する好古の政府軍は、備前・備中・備後の賊軍を圧倒し、藤原文元や三善文公は藤原三辰を頼って讃岐に逃れましたが、政府軍の追求が急で窮地に陥り、純友に助けを求めました。
 ここで純友は、四百艘の兵船を率いて讃岐に攻め込み、政府軍の船を焼き払い、海賊群の先頭に立って合戦におよびましたから、「賊首純友」の名前は確定しまして、もはや後戻りは出来ないことになりました。
 二人の間には何か通じ合うものあったのでしょう、親純友の態度を崩すことのなかった伊予の国司・叔人ですが、ここまで事態が深刻になると、流石にこれ以上庇い切れなくなって、中央政府に純友謀反の報告をします。
 純友を統率者に戴く様になった海賊集団は、今や立派な反乱軍であります。

 純友追討記は「讃岐の介・藤原国風の軍は、賊軍と戦って大敗しました。数百人が矢に当たっての戦死しました。介・国風は警固使を伴ってコッソリと阿波の国に逃げたのですが、ここにも純友の手の者たちが侵入してきて、国府に火を放ち、公私の財物を略奪したので、国風らは更に淡路に逃げて詳細を政府に報告しました。
 この後、国風らは二ヶ月を掛けて武勇に優れた者を募り集めて、讃岐に潜行して政府軍の侵攻を待ちました。」と書き残しています。

 八月中、海賊群の活動は活発を極め、備前備後の兵船が百艘も焼かれ、紀伊の国からも海賊の報告が上がって来ております。
 この絶頂期に、純友は千五百艘の船を支配下においていたとありますが、眉唾物です。仮に三千人の配下を抱えていたとすれば、一艘当たり二人、五千人だったとしても三人程度の人員となり、海上の戦闘集団としては実にお粗末な構成と言わざるを得ません。こう言った数字は相当に割り引いて見ておかなければ成りません。

 政府は、京への水運路である淀川の河口や、川筋の要衝を固めるとともに、好古には南海道(四国)の追捕使も兼任させ、「追捕山陽南海両道凶賊使」としました。
 海上での軍事行動ともなれば、兵を集め、船を揃えただけでは戦力になりません。
 殊に瀬戸内海は地形が複雑な上に、潮流の激しいところがあちこちにあります。
 船団を組んでの作戦は十分な訓練をしておかねば成らず、且つ地理に明るく経験豊かで、潮汐の知識を持った指揮者が必要です。
 この八月の戦況は、こうした知識と経験の彼我の差が歴然と現れている様に見えるのです。

 讃岐介・国風が淡路にあって武勇の者を募っている時でありましょう、純友の片腕と言われていた藤原恒利と言う者が、本人に先見の明に重ねて政府側の工作が効を奏したのか、国風と縁続きであったのか、あるいは純友と衝突でもしたのか、ともかく国風を頼って降って参りました。
 恐らく一人で来たわけではなく、一族郎党を引連れての投降であったでしょう。
 恒利は純友に次ぐ大幹部でありましたから、海賊どものやり方を心得ているだけでなく、彼らの隠れ家や停泊地は言うに及ばず、海陸の交通路や危険な場所にも通じておりました。彼と郎党たちは、素人集団を短期間で海上で戦える集団に仕立て上げたのは確実です。

 一般に何ごとによらず、寝返りをした者の働き振りは目覚ましいもので、恒利もその例にもれなかったようです。
 勇敢な者を選抜して与えられた恒利は、まっ先駆けて海賊どもの停泊所や身内しか知らぬ碇泊地を襲い、重要な拠点には兵を揚陸して補給の道を断ちましたから、海賊たちは「敗り散ること葉の如く海に浮かぶ」という有り様となりました。
 純友は藤原三辰らの讃岐勢を残して、本隊を引連れて安芸・周防方面に退去し、居残った三辰勢は次第に追い立てられて伊予に入っております。
 恒利の勢に追われた海賊群は散りぢりに逃れ去り、折からの悪天候に妨げられて、恒利はその行方を見失っております。
 斯くして、備讃瀬戸を囲む備前・備後・讃岐の国々は、政府軍に奪還されました。
 私には恒利の寝返りが「純友の乱」の転機になったと思えるのです。十月以降海賊たちは西へ西へと移動せざるを得ぬ様になります。
 勲功の筆頭は藤原恒利でありましょう。
 以上が天慶三年十月までの概略の経過です。

 純友も将門と同様に、どこかで政府と妥協し、和解して矛を納めたいと考えていたに違いないのですが、当面の糧食確保には掠奪以外に方法はなく、掠奪を成功させる為には武器を調え、戦意を高く保たねば成らず、大いに悩んだと思います。
 十月下旬、安芸と周防の国境付近で、太宰府の追捕使麾下の一軍と衝突して撃ち破り、十一月上旬には、周防の国の鋳銭司(銭を鋳る役所)を襲っております。
 この時点で、反乱軍がどのくらいの規模を保っていたのか判りませんが、年末年始に掛けて、日振島に退去して建て直しを図りました。しかし糧食補給の必要に迫られていたのでしょう、十二月の初めには、土佐国幡多郡(現在の宿毛辺り)を襲撃しております。
 こうして天慶三年が暮れますが、豊後の土豪佐伯是基と日向の桑原生行を反乱軍に引き込んだのは、日振島に雌伏しているこの時期のことであったと思います。

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