殺戮放火を伴う掠奪から未だ完全に足を洗ったわけではありませんが、アルフレッドとグズルーンの間の手打ちがあった九世紀の終わりの頃から、ヴァイキングたちの活動は定住する土地を求めることに重点が移り、ヴァイキング活動の第二期と目されています。
イングランドでのデーンローの成立に引き続いて、ロロがノルマンディーに領地を獲得したことは、スカンディナヴィア全域に伝わったに相違ありません。
スェーデンを発しロシアに向かったヴァイキングの内、少数の成功者を除いて多くの者たちには、外来者として寒く貧しい土地で惨めな生活をした挙げ句に、将来の展望と言えば惨めな死を迎えるくらいの事しかありません。
多くの者はこうした境遇に見切りをつけて、デーン人やノルウェー人に合流し、あるいは東方の君主たちに傭兵として雇われました。
スウェーデンを出て東に向かい、ロシアの開祖となったと言われるヴァイキングたちは、露語でワリャーグ 、英語で Varangian と呼ばれます。
バルト海の東海岸に接する地域一帯は、もともとフィンとスラヴの両民族の土地でありましたが、ヴァイキングたちは早い時期から、これらの民族との交渉があったようで、八世紀の半ばには、現在のサンクトペテルブルグのすぐ東にある、ラドガ湖の畔に居留地を設営していたと伝えられております。
ヴァイキングがこの広大な土地に本格的に関わりを持つ事になる切っ掛けは、土着のスラヴがフィンとの間の抗争に、彼らを傭兵として引き入れたことに始まり、ブリトンが外敵を防ぐためにサクソン人を招き入れ、そして乗っ取られたのと全く同じ構図です。
ただイングランドでは、招待主のブリトンの意図とは違った形で事態が展開したため、凄惨な戦場となりましたが、このスラヴの土地は広大で、かつ自然環境はイングランドとは大いに異なり、狩猟採集の生活を営む住民の意識も違います。
スラヴやフィンの土着の部族は、外来のワリャーグ人の支配を、昔のブリトンほどには苦痛や屈辱には思わなかったのではないでしょうか。
リューリクと言うヴァイキングの大頭目が、兄弟とそれに連なる一族を引き連れてノヴゴロドに居座り、北極圏を含む北方ロシアの諸部族から貢税を治めさせるほどの勢力となって、あの有名なイワン雷帝に繋がる王朝を開き、ベラルーシを領土に繰り入れ、そして彼の子供たちはキエフを建設して首都にし、広大な地域を支配下に置きました。
これだけの大事業の完成に、僅か十数年しか掛かっていないのです。
ワリャーグ人の存在が外の世界に知られるのは、九世紀になってからです。
カール大帝の治世以来、フランク王国はビザンティン帝国と良好な関係を維持しておりまして、頻繁に外交使節が往来しております。
ビザンティンの皇帝が 838 年頃、大帝の息子のルートウィヒ敬虔王のもとに送った使節団は、ワリャーグの護衛を雇い、ワリャーグの土地を通過してフランク王国に赴きました。
途上、使節団は余程に恐ろしい経験をしたに違いなく、同じ経路で帰ることには耐えられず、本国へは船で還してくれとルートウィヒに懇願しております。
フランクにしてもロシアのことは未知であったらしく、ここで本格的な調査の手が入りました。こうしてビザンティン帝国ともどもカスピ海周辺までの東方事情をおぼろげながら知ることになります。
ワリャーグはバルト海から内陸の河川や湖を利用して、バグダッドやビザンティン帝国との交易を行います。輸出品の大宗は、奴隷にあらゆる種類の毛皮、蜂蜜や蜜蝋、価値の高いものとしては琥珀がありました。輸入するのは穀物や葡萄酒、食用油、ギリシャの手工業製品、インドからの香料などでありました。
交易をしたと言っても、ワリャーグたちは本性を失ったわけではなく、きちんと海賊行為も山賊業もこなしておりまして、二代目キエフ大公オレグの様にコンスタンティノープルに襲いかかり、ビザンティン帝国から莫大な償金を巻き上げて意気揚々帰還した例が無いこともないのですが、多くの場合はあの堅固な城壁を破れず、精強なビザンティンの陸海軍に叩かれて敗退したおります。
彼らは、己たちの貧しさにひき比べてのコンスタンティノープルの豊かさに眼が眩んで懲りることを知らず、1043年までの間に何度も襲いかかっております。
彼らの掠奪行がビザンティンに限定されていたわけではないのは勿論で、カスピ海沿岸からブルガリアに及び、十世紀の終わりには、黒海以北に広がる土地全域をワリャーグたちは「大スェーデン」と呼び習わしておりました。
三代目のキエフ大公イーゴリ (912~945) の場合は、ビザンティン帝国がサラセンと事を構え、軍事的に余裕がないのを見透かしてのヴァイキング行動でした。
案の定、帝国側の防御力は劣悪で、廃船に等しい十五隻のガレー船しかなかったのですが、勇気と創意工夫の力は十分にありました。
本来なら船首にしか装備しない火炎放射器 Greek Fire を両舷と船尾にも備え、ヴァイキングの船団に果敢に突入し、猛火を浴びせかけました。
ヴァイキングたちは、焼け死ぬよりも一か八かで海に飛び込み、多くの溺死者を出し、陸に泳ぎついた者たちは、農夫や兵士に数千の単位で虐殺されました。
しかし、ワリャーグとの戦争は、一方的にビザンティン側に不利であります。
勝ったとしても、貧しいワリャーグは戦利品を生まないのです。
この事は当時の兵員の士気に大いに影響しました。また追跡して黒海の北岸に追いつめたとしても、彼らの後背地は果てしもなく広く、とどめを刺すことは出来ないのです。
この頃からロシア人にとって、国土の広さは最強の武器でありました。
と言うことで、ワリャーグの商人に対しては、首都は勿論のこと領土内での特権を付与するなど、帝国の誇りを飲み下して、協定を結んで無益な戦闘を回避することが多く起こりました。
Greek Fire がどの様な武器であったのか、教えてくれる材料は殆どありません。
この武器が海戦で使われている絵も、私は一種類しか見たことがありませんし、具体的な構造や燃料がどの様なものであったか、確かなことは分かりません。
多くの解説書によれば、粗製ガソリンを主燃料にして、重力により筒型の放射器から噴射して敵に浴びせかけたらしいのです。
678年に、アラブの艦隊がコンスタンチノープルを襲った時に、守備側が城壁や塔に備えて使ったのが始まりで、その後急速に軍船に採用され地中海の海洋国に広まりましたが、火薬の出現で姿を消します。