kitombo.com | 海賊の話 | 2004年6月14日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その14 藤原純友」

裏小路 悠閑
6月14日

 「海賊の話」としてはどちらでも良いことなのですが、当時は勿論のこと、つい最近まで、この乱についての大方の認識は、官軍と賊軍の戦いと言うことになっておりましたので、以下はそれに従うことにします。

 天慶三年の秋、寝返った恒利が先導する官軍の攻撃によって、賊徒の首魁の一人である紀文度が讃岐で逮捕されましたが、賊軍の大部分は瀬戸内海の東部と中央部の拠点を捨てて、雲を霞と逃げ散りましたから、この競り合いでの人的損害はそれ程大きくはなかった、と思えるのです。
 この年の秋から冬にかけての時期に、賊軍はどれほどの規模を維持していたか、確かな記録はありません。
 純友・藤原文元・三善文公などの首領株は、それぞれの家の子郎党に女子供まで引き連れていたでしょうし、これに本然の海賊や海民が加わっていれば、総勢で千人位になっていてもおかしくはありません。
 そして周防・長門・豊前にも、純友に加担する反国司の土豪が少なくなかった様ですから、賊軍は相当大きな規模になって意気軒昂としており、前にお話ししたように十月には大宰府の追捕使の軍勢を敗走させております。

 しかし、瀬戸内海の東部・中部の活動拠点を失った純友らの一団は、今や舟を家として海上を漂泊する集団に成り下がっていて、七八百から千人もの口を養うには、一日あたり三乃至四石の米を調達しなければならず、一個の大集団は利点もありますが、食糧の調達の面から観れば難点の方が大きく、恐らく彼らは連絡を保ちながら小集団に分かれて活動したものと思います。西部海域の同調者たちからの合力があったとしても、相当に苦労したろうと思います。
 食糧の確保は何事にも優先するのです。
 天慶三年の冬に向かっての海賊騒ぎは、記録の上では前掲の通りでそれ以上のことは判らないのですが、恐らくは食糧や武器・需品を調達するために、小さな略奪は繰り返していたものと思います。そして仮に支持者や同盟者からの援助があったとしても、それには何かの見返りや埋め合わせが必要です。  と言うことで、十一月に現在の山口市付近にあった鋳銭司を襲ったのだと思います。
 奪うのは殊更に鋳造済みの銭でなくともいいのです。
 当時は律の定めるところに従い、官人らの犯罪に対しては実刑を科する代わりに、「贖銅」と称して、刑の重さに見合った量の銅のインゴットを納めさせて、罪を購わせていた程に銅の交換価値は高かったのです。
 銭や銅のインゴット自体は腹の足しにはなりませんが、食料や需品を手に入れる為には、他のありふれた品物よりも余程に大きな購買力を持っていた筈です。

 古今東西、陸地の安全な拠り所を失った海賊は惨めです。
 日本で書かれたものでは、未だお目にかかったことはありませんが、古代地中海の海賊については、「活動中の海賊たちは十分に食べることが出来ず、常に飢えているものだから、運良く食糧や飲み物が手に入ると、大盤振舞をして羽目を外し統制が利かなくなる」といった記述を目にします。ホメロスのオデュッセイアにも、その様な情景が描かれています。
 脇道にそれますが、地中海の海賊も瀬戸内海の海賊も、命を失うことになるかも知れぬ危険を冒しながらであっても、短い周期で補給が出来ましたから、壊血病という災厄がこの世にあることを知らず、後の世の大洋を稼ぎ場にした海賊や、普通の船乗りが被った苦難に比べれば、まだまだ天国にいる様なものです。

 明けて天慶四年 (941)は、純友の名を冠した反乱の最後の年となります。
 讃岐国での反乱の元凶と目されていた藤原三辰(みたつ)は、恒利に追われて伊予に逃れておりましたが、正月早々に官軍に捕まり、処刑されて首が都で晒されました。
 紀文度に続いて二人目の首魁の処刑です。
 「藤原恒利らが伊予に向かい、頗る賊類を撃つ」と記録されておりまして、二月には東部海域は官軍が完全に支配するところとなりました。
 追捕使・好古や恒利らは、前年十一月の鋳銭司襲撃事件の後、純友が率いる賊軍本隊の行方を見失ったようで、天慶四年四月までその活動は記録されていないのだと聞いたことがありますが、そこには何か理由がありそうです。

 天慶三年十二月、京都が豪雪に見舞われ「降雪三尺」と記録されております。
 京都にこれほどの大雪が降るなどとは、私には一寸想像できないのです。
 天慶一年には京市中が大洪水に見舞われ、二年には西国を激しい旱魃が襲ったが為に米価騰貴がおこって争乱が広がり、そして三年の豪雪と続けば、この頃は異常気象の時期にあったのか、と思っても不思議ではないでしょう。
 ともあれ、この年は異常に厳しい冬を迎えることになり、海賊活動は勿論のこと、軍事活動も沈滞気味になったのだ、と想像しても許されるでしょう。

 瀬戸内海と聞けば反射的に「波静かな」とイメージし勝ちですが、冬の間は頻繁に発生する低気圧の通過後に関門海峡を吹き抜ける風の強さは格別でありまして、それが海面の広くひらけた周防灘や豊後水道に吹き出して大波を起し、同時に吹雪に見舞われることは覚悟しておかねばならず、櫓櫂で動く小舟が活動できる状態でなくなることが、しばしば起こるのです。

 純友らは日振島に退去して冬籠りをする傍ら、恐らく八方に使いを出し、日向・豊後の反太宰府勢力と目される、佐伯是元や桑原生行らとも連絡を取って、懸命に態勢の建て直しを計っていたのでありましょう。

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