キエフの七代目の大公ウラディミール一世 (在位 978~1015) は、若い頃に継承問題に絡む内紛に巻き込まれ、身の危険を避けて一度はスェーデン本土に亡命しますが、本土でヴァイキングを募って兵力を調え、ロシアに再上陸するとキエフに攻め込んで大公を殺し後釜に座るなど、血なまぐさい経歴の持ち主です。
彼は、本土から伴って来たヴァイキングに支えられて、大公の椅子に座ってはおりましたが、傭兵たちの要求に応えるだけの十分な富を持っておりませんでした。 傭兵の不満は蓄積する前に解消しなければ危険であります。
掠奪に駆り立てて解決し、あるいは、領民に余裕があれば課税を重くすることも出来ますが、ウラディミールの場合はどちらも出来なかったようで、手当の支払いに四苦八苦した挙げ句、一計を案じます。
十世紀もこの頃になりますと、ロシア生まれのワリャーギは勿論、ウラディミールもスラヴに同化していて、ロシアの大地にしっかりと根を下ろしておりましたから、本国から伴って来たヴァイキングたちを、問題を起こし勝ちな厄介な外国人と見ており、両者の意識には大きな隔たりがありました。
大公はヴァイキングたちの耳に、心地よい助言を吹き込みました。
「お前たちの奉仕に、余に上回る感謝の気持ちを持つ君主が居たとしても、そう言う者に仕えるよりも、もっと裕福な君主に仕えた方がよかろう。ビザンティンに渡れば、そこでは奉公への報償は栗鼠の毛皮などではなく、絹や金銀で支払ってくれるのだ」と。
ヴァイキングたちは、一も二も無くその気になりましたから、大公は早速にビザンティンの同盟者バシレイオス二世に、ワリャーグ傭兵の扱い方の勘所を巨細に亘って伝授し、988 年、六千人のヴァイキングを送り出しました。
大公は不満分子ともども大量の外国人からなる余剰人員を整理した上に、莫大な礼物まで手に入れ、バシレイオスの方はこの剽悍無比な兵を以て特別の軍団を編成し、親衛隊としました。
これが世に有名なヴァリャーギ親衛隊 Varangian Guard の始まりで、彼らは特別待遇を受け、当時は世界一の高給取りの軍団であった筈です。
当然入隊希望者は引きも切らず、隊員の身分は高額で売買されました。
傭兵は請け負い仕事ですから、元請け下請け孫請け、あるいは丸投げと様々な場所で利益を上げる者がいるわけで、金持ちになって故郷に錦を飾って帰ることが出来た者も、結構な数に上るわけです。
傭兵隊の幹部連中にとって俸給などは屁でもありません。
彼らは個々の職責の大きさに応じて、大物は大物なりに、小物は小物なりにお金が動くところには全て手を突っ込み、そして、戦争があれば戦利品や掠奪品の配分割合も一般兵士とは比べ物にならぬのです。
ヴァリャーギ親衛隊がらみで、話は更に先に飛びますが、ご容赦願います。
ノルウェーの王で、その統治手法の厳しさ故に苛烈王と渾名されるハーラル三世(1015生、在位 1046~1066)もヴァリャーギ親衛隊員でありました。
彼は1030年の内乱で負け組に加担して敗れ、十五才でノヴゴロドの大公を頼って亡命して後、コンスタンティノープルに流れて親衛隊に入隊し、女帝ゾエに仕えました。恐らく、彼の出自から見て元請け社長身分での参加であったでしょう。
イタリア、シシリー、北アフリカ、イェルサレムなどを含め、十八回の戦闘に参加して莫大な財産を貯め込み、1043 年に帰国しております。
その後ノヴゴロド大公ヤロスラフの娘を娶り、一時期デンマーク王のスヴェンと組んで、ノルウェー王となっている甥のマグヌス一世を攻めたりしておりますが、1046年、東方で稼ぎ持ち帰った財産を共有することでマグヌスと和解し、ノルウェーの半分を譲り受け王位に就きました。
翌1047年、ハーラルにとっては幸運なことにマグヌスが没して、ノルウェー全土を手に入れることが出来ました。
実は、このマグヌス一世はデンマーク王のハルデカヌートと王位継承協定を結んでおりまして、デンマーク王の死後デンマークの王位とともに、理論上はイングランドの王位継承権をも引き継いでいることになっておりました。
従ってマグヌス一世の後を襲った苛烈王ハーラルは、イングランドの王位継承権を持っていると主張し、当時権力の空白常態になった英国に、ノルマンディ公ウィリアムに先んじて攻め込んだわけであります。
ノルマンに征服されて居所を失い、英国から逃れ出た多数のサクソン人やデーン人が、ヴァリャーギ親衛隊に入隊しておりまして、この時期を境に隊員の顔ぶれが大きく変わりますが、最後までヴァリャーギ親衛隊の名で活動しております。
親衛隊は皇帝に忠誠を尽くし、赫々たる戦績を誇り、少なくとも 1341年までは存続しております。
身の不運をかこつ者は、
ロシアへ行ってみればよい。
ロシアを知れば、
何処であろうと、
住むに不満なところなど無いと、
納得するだろう。
Marquis de Custine, Russia in 1839