天慶四年五月、純友は土地勘のある太宰府を攻撃します。
西海道(九州)全域は律令制において、特別行政区域となっておりまして大宰府がその統括官庁であり、軍事、外交、貿易を司ると言う特殊な性格を持つ行政機関でありました。
その重要性に鑑みてでありましょう、平安期の初めからは親王をその長官(帥・そち)に任ずる慣習が出来上がっておりましたが、皇族は都を離れることが許されない為、次官である大弐が事実上長官の職務を執っておりました。
因に、左遷されて大宰府に流された左大臣菅原道真の肩書きは、大宰権帥 (仮の長官 ごんのそち)
でありましたが、左遷された大臣の権帥は正官でないため、事務に携わることが出来ないことになっておりまして、そのことが実績と英才の令名高い道真の悲しみと怒りを、一層つのらせることになったのでありましょう。
大宰府は九州全土を覆い尽くす収奪の機構の拠点でありましたから、古くからこの地に根を張る在地首長たちの深い怨みの集中する所でもあったのです。
そこには累代の交易による珍奇にして高価な財貨が蓄積されており、略奪によって日常の糧を得ていた海賊にとっては、願ってもない目標であったでしょう。
賊軍と規定され、官軍の追求を受けながらの海賊稼業は、そう何時までも続けられるものではなく、壊滅させられる前に何とかしなければなりません。
察するに、純友の戦略は政治的に軍事的に、そして経済的にも特別な意味を持つ大宰府を制圧して質に取り、政府から妥協を引き出そうと言うものであったのでしょう。
桑原や佐伯と言った土豪をも巻き込んでの軍事行動は、単なる海賊的略奪が主目的ではなかった、と思えるのですが、どうでしょう。
しかし、律令制の崩壊が進んでいるこの時期に妥協すれば、忽ちにして将門や純友と同様な意図を持つ者が、蠅のように湧き出くるのは明らかで、朝廷側には妥協は絶対にあり得ないのです。政府の固い意志は、官軍の側に付いた者たちに、惜しみなく約束された恩賞に如実に表れております。
実のところ、官軍を構成する小集団の頭領たちは、純友や桑原や佐伯、藤原三辰など賊軍を形成していた者たちと同じ階級に属しており、従って国司からは同じ扱いを受ける者たちであったのですが、大きな手柄を立てて叙爵や褒賞に与れば、今度は国司となって搾取する側に立てるかも知れないのです。
そして、総司令官・好古にとっては出世の好機である上に面目もあり、また彼に与した者たちにしてみれば、農事を一時擲って命懸けのリスクを背負っての参戦でありましたから、今更政府が純友と妥協をしてもらっては困るのです。
天慶四年の初夏の頃、純友は九州の反大宰府勢力と申し合わせて、隠密裡に豊後水道を北上し関門海峡の警戒線を突破して、五月中旬太宰府に襲いかかりました。
「日本紀略」には、五月十九日に純友軍が太宰府を襲撃した、と好古から報告があったことが記録されております。
「本朝世紀」には、五月二十日に官軍が博多津で純友軍と会戦し、これを壊滅させたとあります。
十九日に賊軍が太宰府を襲ったと言う意味ではなく、この日に報告が都の届いたと言うことでしょう。その当時、好古は伊予の国に在って純友の行方を探索していたようですから、太宰府攻撃の報告を受けた後に作戦を練り陣容を整えて進発して、二十日に主力同士の戦いが始まったとすると、純友ら賊軍はかなり前から、太宰府を中心に筑前で活動していたと言うことになります。
細かいことはこの際どうでも良いのですが、純友らの太宰府襲撃は十九日よりも相当に早い時期に始まったとした方が、理屈に合うのではないでしょうか。
純友らの襲撃は恐らく、海陸から同時になされた挟撃作戦であったでしょう。
その昔、唐と新羅の侵攻に備えて築かれた水城などの防備は難なく乗り越え、守備兵を忽ち追い散らして府内に乱入するや、ほしいままに累代の財貨を略奪した挙げ句に、放火して回りましたから壮麗な政庁を初め府内の建物はすべて焼け落ち、一面の焼け野原となりました。
この様な状況になると海賊の本性違わずで軍団としての体裁をなさず、配下の暴挙によりすべては灰燼に帰して終いましたから、もはや質に取るものは何もなく、純友の政府との交渉の望みは、この誤算の前に一場の夢と消えたのではないでしょうか。
海賊たちが、大宰府の行政区域内で略奪と放火に現を抜かしている間に、好古は一軍を率いて九州東岸に上陸して陸路太宰府に進撃し、他の一軍は五月二十日、追捕使のスタッフである主典・大蔵春実と例の藤原恒利らに率いられて海上を進んで博多に上陸、待ち構える賊軍と激突しました。
挟み撃ちにあった賊軍は、海戦に持ち込んで不利な戦況を挽回しようとしましたが、褒賞という発奮材料において遥かに勝る官軍の兵が、我先にと賊船に乗り込んで火を放って焼き払ったため、賊軍は逃げ場を失い、捕われ殺されました。
八百艘を超える舟が官軍に鹵獲され、矢に当たって死傷する者は数百、官軍の威を恐れて海に身を投げる男女は数知れず、という惨状を呈しました。官軍が打ち漏らした者は、蜘蛛の子を散らすように何処かへ消え失せました。
純友は乱陣を切り抜け、息・重太丸を伴って小舟に乗り脱出に成功しております。
「純友、扁舟に乗り逃げて伊予国に帰る」と後の記録にありますが、脱出したのは純友だけではなく、天慶の海賊騒動の発端となった摂津国須佐駅 (芦屋)での襲撃事件を起こした藤原文元も、弟の文用と三善文公とともに東に逃れ、九州勢の桑原生行と佐伯是基も警戒の網を潜って落ちて行きました。
賊軍の首脳部全員を討ち漏らしたとは、どう言う事を意味するのでしょうか。
記録に残る戦勝報告が派手なだけに、辻褄が合わぬのです。