五月二十日博多津で決定的な敗北を喫して、海上に逃れでた純友と重太丸には、恐らく何人かの家の子郎党が従っていたと思います。一行は六月十一日に備前の国で上陸する所を目撃され、上京するのではないかと報告されております。
純友本人はどう思っていたのか判りませんが、世の人の多くは、彼らは都に上って弁明する積もりではないか、と想像していたようです。
しかし、褒賞にうかされた者たちの謀反人追求の勢いは盛んで、上京は困難と判断した純友の一行は、伊予の何処かに辿り着きました。それは今の新居浜市の付近であるとの言い伝えもありますが、いずれにしても疲労困憊の状態であったでしょう。
忽ち伊予の警固使・橘遠保 (たちばなのとおやす)に見つかり、射られて傷を負い捕らえられ、父子ともに斬られました。
最期の時に何を思ったのでしょう。ひょっとしたら、喜多郡の不動穀三千石の略奪に関わったことがすべての始まりであり、今更ながらにあの日を悔いていたかもしれません。 七月七日、首は都に送られ、九日には東西の市で晒されました。
太宰府攻撃に際して、純友は妻を宿毛の松尾峠近くの隠れ家に潜ませた、と言う伝説もあり、妻は夫と子の死を知って、悲嘆のうちに八月十六日に死んだと言います。
藤原文元・文用(ふみもち)兄弟と三善文公の一行は、九月十六日頃になって備前国邑久郡に現れ上陸して播磨に逃れましたが、備前国からは諸国に情報が回っておりました。
九月二十日、赤穂郡で警戒中の国衙軍に見つかり戦闘となりまして、三善文公は戦死しましたが、文元・文用兄弟は追撃を振り切って脱出に成功しました。
二人は僧形に身をやつして潜行し、十月十八日になって但馬の国朝来郡の賀茂貞行と言う者の館に現れ、当主にむかし施した恩を思い出させ、しばしの休息と東国への旅に必要な支度を頼みました。
貞行は快諾して宿を提供して安心させておいて、五百の兵を集めて宿舎を包囲し、一行を射殺して首を刎ね、都に届けました。
佐伯是基は、八月になってから日向を襲撃しました。
十七・十八日の両日に亘る激戦の末、藤原貞包に召し捕られました。
その功により、藤原貞包は筑前の掾に任じられております。
桑原生行は、九月六日に豊後国は現在の佐伯市を襲い、追討凶賊使・源経基に捕縛されました。経基は大宰少弐に出世しております。
承平・天慶と続いた戦乱は治まり、天慶四年十月末には戦時体制が解除され、同十一月には「今月以降、天下安寧、海内清平」と平和回復宣言が申し出されました。
朝廷はこの乱を通して、揺籃期にある武士の処遇を誤れば、彼らの大規模反乱を誘発しかねぬことを、骨身に沁みて感じ取っておりまして、翌天慶五年六月の論功行賞では、数多の勲功者に位階・官職が乱発されました。
官軍の総司令官・小野好古は大宰大弐に昇進し、後には参議の末席に連なります。
純友を討ち取った橘遠保は美濃介、博多湾での戦闘を指揮した大蔵春実は対馬守に任じられておりますが、寝返りを打った藤原恒利や、文元・文用兄弟を騙し討ちにした賀茂貞行も、それなりの恩賞を受けたでしょうが、どの様なものであったのか私は知りません。
平貞盛に協力して将門を討った、藤原秀郷は従四位下に叙され下野・武蔵両国の国守となり、武名は都のみならず天下に鳴り響いておりましたことが、勢力の扶植に大きな力となり、土着の後には更に支配地を拡大して、小山・足利氏らの始祖となりました。
平貞盛の方は鎮守府将軍に任ぜられ、その子維衡が伊勢国守に任用されたことで伊勢と伊賀の地に根拠を築いて伊勢平氏と呼ばれるようになり、後の世の清盛による平家一門の繁栄の基となりました。
純友を討ち取った橘遠保は、美濃介に任じられていますが、任地で苛政を布いて人々の怨みを買ったのでありましょうか、間もなく何者かに殺害されております。
将門の乱も純友の乱も、土着勢力の反国司闘争であったのですが、政府は反乱者たちと政治的社会的に同じ立場の、藤原秀郷や平貞盛の様な土着者を噛み合わせて鎮圧し、多くの者を勲功があったとして国司に任命しました。彼らもまた在任中には蓄財に励み、任期が明ければ土着して反国司感情を持つ様になります。
将門と純友の悲惨な末路を身近に体験した武士たちの政治的成長には目覚ましいものがありますが、同時に武力は朝廷の権威の下でのみ、その威力を発揮できることを思い知りましたから、公卿たちには物資の提供をし、あるいは居館を建ててやるなど阿諛追従の限りを尽くして取り入り、勢力の拡大を図りました。
多くの小物の勲功者たちは衛府や八省の下級官人に任用されましたが、彼らも同様に権門勢家に取り入って蔵人や検非違使につけて貰い、精勤して出世しても五位どまりの「諸大夫」と呼ばれる実務官人となり、うまく行けば受領となって蓄財し、土着して勢力基盤を確立できる日を夢見ておりました。
朝廷は平和宣言を出しましたが、政治のあり方は何も変わってはおりませんから、争乱の火種は残っただけでなく拡散していて、紛争はもはや日常の出来事になったと言ってもよいでしょう。
従って瀬戸内海の海賊も、純友の乱の終結後も健在でしたから、平忠盛と清盛の親子は、海賊討伐の功により政界に乗り出すきっかけを掴むことが出来たわけです。
「藤原純友の乱」を終わります。