kitombo.com | 海賊の話 | 2005年7月11日 
kitombo.com

海賊の話
「ヴァイキング その20 デーンゲルド」

裏小路 悠閑
7月11日

 980年から、ヴァイキングのイングランド侵寇は、年中行事になりました。
 地図などと言う便利な物がない時代で、しかも当時のイングランドの南東部の大部分は深い森林と沼沢地の世界です。掠奪の目的となるほどの規模の集落を探し求めるのに、大変な時間と労力がかかりましたから、ヴァイキング側も、初めの内は手探りの状態であったようで、小集団でやって来ては、手軽に襲える沿岸地帯を掠奪して満足しておりました。
 偵察中のヴァイキングに、晩祷の鐘の音を聞かれたがために掠奪にあってしまった、などと言う話もある程です。

 彼らは漸次知識と経験を積み、サクソンの不満分子や親デーン派の者たちをも取り込み、集団は次第に膨れ上がって軍勢となり、遂には軍隊になったのですが、重要なことは、この時期、ノルマンディの支配者が、ヴァイキングたちに安全な港や休息地を提供するなど便宜を図っていて、効率よくイングランドへの侵寇が行えたことです。
 当然のことながら、イングランドとノルマンディの関係は険悪になりました。
 ローマ法王庁にとって、北部フランスとイングランドは権威の基盤であり、殊にイングランドからは国民に広く賦課される「ペトロ献金」が直接法王庁に献納される外、諸々の寄進もあって経済的にも重要な地域でありましたから、両者間の紛争は何としても回避させなければなりません。
 法王ヨハネ十五世 (985~996) が仲介に立ち、991年強引に和平条約を結ばせました。法王の意向には逆らえず条約は締結されましたが、強大な勢力となっていたノルマンディ側には、イングランドに対する侮りがあり、条約を誠意を以て守った形跡はありません。

 991年、後にノルウェー王になるオラフ一世が、大船団を率いて来襲し南東海岸を荒し回り、領民は惨憺たる状況に陥りました。勇猛で鳴るエセックスの代官が反撃に出て、八月十日ロンドンの北部沿岸のモールドンと言うところで激戦となりました。これは俚謡にも歌い継がれ、英国の戦史に残る戦です。
 双方ともに大損害を出しましたが、ヴァイキング側の勝利に終わり、彼らはロンドンへの進撃を企てておりました。

 外敵侵入に対処するための賢人会議は混乱した様です。この後の年代記の記述から推測すると、エセルレッドは主戦派であった様なのですが、ダンスタンの死後に大司教になったシリキウスを筆頭に、代官アルフリック等の有力者が提唱する和平案が採択され、オラフと交渉に入り「一万ポンド」で劫略の停止と国外退去を買い取りました。
 かのアルフレッッド大王でさえも、時間稼ぎの為にヴァイキングに貢税を払ったではないか、と言うのが和平派の言い分であったのではないでしょうか。
 購い金を受け取った後も、ヴァイキングは退去せず沿岸地方を徘徊していたようで、翌992年、しびれを切らしたエセルレッドは大召集を発令し、ロンドンに能う限りの船をかき集めて海軍を編成し、代官アルフリックを一軍の指揮官に任命して出撃させました。
 この時、指揮官アルフリックは、ヴァイキングにイギリス軍の攻撃のあることを通報し、開戦前夜に一族郎党を引き連れて脱出し、ヴァイキングの陣に加わっております。
 この唐突になされた寝返りの理由を年代記は記録しておりませんし、解説してくれる文書には未だ出会っておりません。デーンローが成立してから既に百年、恐らく世代交代は三四回起こっており、私たちが想像する以上にサクソンとデーンの融合が進んでいたのではないか、と推測するのですがどうでしょう。
 この裏切りの外にも、謀反事件が記録されているところを見ますと、ウェセックス朝イングランドの社会構造の変化は、最早王家の論理だけでは統治不能なところまで進んでいたのではないか、と思えるのです。
 とにかく王と賢人会議の対ヴァイキング政策の足並みの乱れは明白です。

 この海戦は、イギリス側の勝利に終わり、アルフリック本人は逃亡に成功しましたが彼の部下は殺され、人質であったのでしょうか、アルフリックの息子は翌年エセルレッドの命令によって、眼を潰されております。
 ヴァイキングに支払った「一万ポンド」は税金として国民に賦課され、「デーンゲルド」つまりデーン人の税金と呼ばれることになります。
 ヴァイキングたちは、デーンゲルドの味を覚えてしまいました。

 994年九月、オラフが再びやってきました。
 今回ははデンマーク王のスヴェン (叉鬚王・Forkbeard。ブルートゥスの子)と手を組んでの来襲で、94隻の船団を率いていてロンドンが掠奪の主目標です。
 ロンドン市民は不退転の防衛戦を敢行し、ヴァイキングたちは攻めあぐねておりました。彼らはロンドンの包囲を完了し、嬉々として放火に励みましたが、自ら放った火に損害を蒙って撤退せざるを得ませんでした。
 ロンドン市民は聖母マリアのご加護により、救われたのだと言います。
 ヴァイキングは腹いせに、これまでに見たこともない暴虐ぶりを見せ、ケント、エセックス、サセックス、ハンプシャーを荒し回り、馬を徴発して駆け巡って筆舌に尽くし難い災厄をまき散らしました。
 今回もまた、王と賢人会議は和平を求め、食糧の供給と購い金の支払いを前提に和平交渉に入りました。
 結局「休戦協定締結以前になされた掠奪や殺人や傷害の責任を問わず、何人も報復行為をせず、損害賠償の請求もせぬこと」に加えて貢税を支払うことを条件に、掠奪の停止の合意に達しました。
 最早季節も進んでおりましたので、ヴァイキングたちはサウサンプトンに集結して冬営し、ウェセックスの住民から食糧の供給を受けております。
 今回の最終的な支払い総額は、金銀で二万二千ポンドに達した様です。

 この後、侵寇に対するデーンゲルドは次第に膨れ上がり、イギリス人は自らの手で、デーン人がイギリス征服の為に必要とする資金の調達に精一杯協力することになるのですが、勿論当時の人々の意識に上る筈はありません。

これまでのコラム
kitombo.com