kitombo.com | 海賊の話 | 2004年7月12日 
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海賊の話
「カエサルとブリタニア その2」

裏小路 悠閑
7月12日

 ブリタニアには未だ国家の体裁はないにしても、襲われる方にしてみれば、カエサルの侵攻は海賊行為に外なりません。歴史書では、カエサルのブリタニア侵攻は、略奪を目的とした襲撃を意味する "foray" と書かれたものをよく目にします。昔も今も、カエサルのこの時期の活動を「正当な理由のない侵略だ」とする人たちが多くいることも事実です。
 軍艦を派遣して敵情の偵察をさせましたが、偵察隊は結局海岸沿いに漕ぎ回っただけで上陸せずに帰ってきました。この間にガリアの商人が、カエサルが侵攻の計画をしていることをブリタニア側に通報しましたから、島の部族から続々と使いの者がやって来て、人質を差し出し、ローマの支配に服すると約束しました。
 カエサルは使者たちを懇ろに扱い、約束を守る様に念を押して返しております。
 現代の日本人なら、ほくほく顔で、「そうかそうか、穏やかに済んでよかった」と一件落着となるところでしょうが、カエサルの立場は違います。
 平和的解決では軍資金が捻出できないのです。戦争に持ち込めば多くの捕虜を獲得して換金し、あるいは約束を違えたと言い掛りをつけて賠償金を出させることも出来る上に、ブリタニアの征服に成功すれば、既に残した数々の戦勝記録に、更にもう一つ付け加えることになるのです。ガリアの商人たちがブリタニアへ通報するだろうと言うことは、カエサルの戦略には当然織り込み済みであったでしょう。

 前55年の遠征には、この地方から百隻ほどもの船を徴発したようで、ローマ軍が建造したことを窺わせる記述はありません。八十隻を二個軍団に割当て、別に持っていた軍艦には財務官と控えの指揮官たちを乗せ、風のため同じ港 (おそらく現在のブーローニュでしょう)に入れず八哩ほど北の港にいる十八隻の商船は、騎兵の輸送に当てることにしております。
 ドーヴァー海峡は、その最狭部では32kmほどしかありませんが、この狭い海峡が古くはブリタニアを、そしてつい最近まで英国を守る障壁となってきたのです。
 因に1994年に海峡トンネル (the Channel Tunnel) が開業して以来、ウォータールー駅を出たユーロスターは海峡部分を二十分ほどでくぐり抜けてしまいます。

 「ガリア戦記」には日付を入れてくれておりませんので、前後の文章から推測する外はありません。多分八月の末でありましょう、天候を見計らって夜中過ぎに一斉に出港しております。
 この後の内容からすると、知ってか知らずにか潮流の一番弱い日を選んだのではないかと思うのですが、それでも船団は潮に流されたようで、直線距離にして約40km の距離を渡るのに十時間も掛かけており、しかも目標地点からかなり西方のドーヴァーの白い崖の下に、先頭の集団は午前十時頃着いたようです。
 この海岸は切り立った崖になっていて、上陸には適当でないので、遅れた船が集まって来るまで停泊し、午後三時過ぎに潮の流れも風も変わったので、東に進み平らな海岸を見つけて上陸することになりました。
 カエサルの侵攻を聞き知っていたブリトンの諸族は、大陸では既に時代遅れで誰も見向きもしなくなった戦車まで繰り出して、ローマ兵の上陸を阻止しようと待ち構えておりました。遠浅の海岸は重武装の兵士の上陸を困難にし、散々に痛めつけられましたが、軍艦の投石機などブリトンが見た事もない装置で度肝を抜き、その間にローマ軍は集結し海岸堡を設けると、攻守所を変えて反撃に出てブリトンに打撃を与えました。ローマ軍の勢いに恐れをなしたブリトンは、カエサルの許に講和使節を送ってきました。
 カエサルは大陸に自ら使節をおくって来て和を請いながら、挑戦して来たことに憤慨しながらも、人質を出させることで許すことにしました。
 海岸近くの部族はすぐに人質を出しましたが、他の者たちの国は遠方なので数日の猶予がほしいと言うことで帰って行きました。

 一方、北方の港から騎兵を乗せて出港した十八隻の船は遅れに遅れて、本隊の上陸から四日目にようやくブリタニアの岸辺に近づき、陸からもその姿が見えるところまできたところで、急に北からの暴風に襲われて航行不能に陥り、あるものは海峡を西に流され、あるものは錨を入れて凌ごうとしましたが、波が打ち込んで危険になったため、沖に出てついには大陸に戻ってしまいました。
 その夜はちょうど満月で、大洋では潮の最も高くなる日であったが、味方はそれを知らなかった、とカエサルは書いていますが、カエサル自身が知っていたのかどうか文面からは判断できません。恐らく知らなかったのではないでしょうか。
 地中海では潮の干満の差は微少でありまして、湾奧にあるヴェネツィアでも潮汐自体は最大でも一メートルを超えることはありません。これに対してドーヴァー海峡では六メートルもの干満差があります。従って潮流も激しく、強風が潮流に逆らって吹く時は水深の浅いことも手伝って、波長が短い異常な高波があの辺りでは起こるのです。

 同夜の暴風と高波は上陸部隊を運んで来た船団にも大損害を与えました。
 ローマ軍はブリタニアを手っ取り早く片付けて、ガリアに戻って越冬することに決めており、食糧も装備も十分に用意しておりませんでしたから、多くの船を失ったことで全軍が大混乱に陥りました。
 侵略者には食糧も騎兵も船もないことは、すぐにブリトンの知るところとなりました。 ローマ軍が敗北した上に、退去も出来なくなったなら、以後は誰もブリタニアに攻め込もうなどとは思わなくなるだろう、ここはいちばん長期戦に持ち込んで兵糧攻めをして、冬まで滞陣させるのが最も有効な戦法である、とブリトンは考えたのでした。
 しかし、一時の混乱を抜け出すと、そこは千軍万馬の古強者の軍団であります。
 一軍団を食糧の徴発に出し、他の軍団は使用不能となった船から材料を採って修理を行うとともに、大陸から必要な品物を持って来る様に人を派遣しました。
 結局は十二隻の船を失っただけと言う勘定になりました。

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