十世紀にイングランドで行われていたキリスト教は、現代のキリスト教とは全く別物と言った方が良いかも知れません。
当時俗人で聖書を読める者などはおりません。六世紀のあのギルダスの頃以来相も変わらず、教会は教会の都合で繰り返し人々の罪深さを説きましたから、多くのイギリス人たちはヴァイキングのもたらす災厄を、神が降し給うた罰であると理解しました。
当然彼らの間には敵愾心の盛り上がるわけがなく、ヴァイキングのなすがままに掠奪され殺され、あるいは無抵抗の内に捕捉されて奴隷に売られる者たちが大勢おりました。
兄王を暗殺してまでエセルレッドを擁立した重臣たちの立場は反教会的で、少年時代のエセルレッドの行動に、それがよく現れております。
年代記には理由は記されておりませんが、彼が十九歳の頃、ロチェスターの司教と紛争を起こしております。恐らく重臣たちに使嗾されて起こした土地問題が拗れたのでしょうが、軍隊を出して司教領を荒し回るまでに至っております。
この騒動には大司教ダンスタンが介入して来て、エセルレッドに「100ポンド」の和解金を支払って矛を収めさせたのですが、王は金に執着する汚い男と言いふらしましたから、教会との間柄はますます拗れて、紛争はこれだけでは終わりませんでした。
オラフの一統が引揚げて二年ほど比較的静かな時間がありましたが、この時期までにウェセックス・イングランドでは、王の擁立の頃から側近として仕え、善くも悪くも国家の柱石となって来た大物が、次々とこの世を去って世代交代が起こり賢人会議を構成する顔ぶれが変わりました。この変化は組織と権益に継続性を持つ教会側に賢人会議の主導権が移ることを意味しました。
当然のことながら、後ろ盾を失ったエセルレッドの姿勢にも変化が見られます。 彼は次第に阿諛追従に長けた小人物を重用する様になり、この後の政治や国防に大きな影響を及ぼします。
気の弱りからか、自身と国の為に神のご加護を切に願うようになったエセルレッドは、何度も何度も悔悟の念を表明しては、その度毎に昔没収した教会の土地や権利を返還しております。
997年から再び侵攻が始まりますが、ヴァイキングたちは999年に至るまで居座り続けて我が物顔の振る舞いを続けます。
999年、ケント州が荒らされたのを切っ掛けに、エセルレッドは海陸の双方に軍隊を編制して挟み撃ちにしようとします。しかし、軍船の集結が終わり出撃命令を待つばかりになったのですが、指揮系統が全く機能せず、連日の待機命令で兵員と乗組員は疲労困憊しました。
この作戦は住民を更に困難な状況に陥れ、只ただ軍費を浪費し、ヴァイキングたちを勇気づけただけで終わりました。
1000 年の夏、ヴァイキングたちはノルマンディーに渡り、掠奪品の処分を行った模様です。
この年、エセルレッドは忙しく立ち働いております。
先年編成した海軍を動かし、ヴァイキングの拠点となっているマン島と、カンバーランド(現在のカンブリア州)に親征して壊滅させた上で、条約違反を続ける「ノルマンの大公、リシャール二世を縛り上げて連れて来い」と命じてノルマンディーに派遣しました。
侵攻部隊は、二次大戦の D ディーの上陸作戦で知られるノルマンディーのコタンタン半島に向かったのですが、壊滅的な打撃を蒙って帰ってきました。
しかしこの作戦の結果でありましょう、リシャール一世の娘で現大公の妹エマとエセルレッドの縁組みが纏まります。このエマの存在は、後のイングランドの命運に大きな関わりを持つことになります。
翌1001年、たっぷりと休養をとったヴァイキングが海峡を渡ってきました。
彼らは思う存分に暴れ回りますが、イングランド側は統制の取れた効果的な反撃ができません。
最早諦めの空気が賢人会議を支配していたようで、又もや貢物を差し出して掠奪を止めてもらうことに衆議一決し、交渉に入りました。
1002年、食糧を提供し「二万四千ポンド」支払うことで交渉は成立しました。
こうした混乱の中、ノルマンディーからエマが輿入れしてきました。
大変な美人であったそうですが、賢い人でもあったのではないかと思います。
ただ、両家が姻戚になっても、関係が良くなったわけではなく、互いに相手方に何か災厄や恥辱にまみれる様なことが起これば良いと思っていたのです。
デーンゲルドの二万四千ポンドが、実際にどれほどの価値があったのか、今は知る由もありません。
流通していた貨幣はペニー銀貨であり、240ペンスで1ポンドであります。
当時も現在と同じ金衡ポンドを使っていたとすれば、1ポンドは373グラムであり、その内訳は次ぎの様になります。
1ポンド = 240ペンス、 1ペニー = 銀含有量 1.554グラム
1シリング= 12ペンス、 20シリング= 1ポンド
従って、二万四千ポンドに相当する銀の実質量は約9トンに相当し、その大部分は塊銀や棒銀、あるいは装飾品や工芸品であったでしょうが、もし仮に全量をペニー銀貨で支払ったとすれば、実に五百七十六万枚に達します。
当時、貨幣の発行は王の特権事業ではなく、地方で異なった貨幣が発行されておりますが、ペニー銀貨は押し並べて高品質で、國の内外を問わず高い信用をえておりました。
この時代、羊一頭が5ペンス、豚は10ペンスであったと言う記事をみたことがありますが、二万四千ポンドを「羊」に換算すれば百十五万頭ほどになります。
エドワード懺悔王 (在位1042~1066) の領地から上がる年収は約五千ポンドと推測されており、彼を滅ぼしたノルマン朝の始祖ウィリアム一世の収入は一万一千から最大限一万七千ポンドと見積もられております。
少し時代が下って十三世紀、農地の取引が行われる様になると、平均的に1エーカー(1,226坪、約四段歩)の値段は7シリング、つまり84ペンス(銀 130g 相当)であったとされております。賃貸しした場合のエーカー当たりの収益を年6ペンスとして、十四年の総収益に相当する価格が基準となっていた様です。
従って、この当時1ポンドあれば 約3,500坪の農地を買えたわけです。
デーンゲルド支払いのため、エセルレッドと賢人会議は特別税を創設し、一ハイドの土地につき、3乃至4シリングを地租として課税しました。
その徴収権は王権に付随するものとして末永く引き継がれ、軍事費を賄うに格好の財源の一つとなりました。