ローマ軍の苦境を知ったブリタニア勢は、カエサルが食糧の調達に必死になることを見越して、一部の耕地だけ麦を刈り残し罠を仕掛けて待っておりました。
それが罠と判っていても、ローマ軍はその麦を刈り取らなければなりません。
ここで、激しい戦闘が起こり、双方に相当な損害が出た様なのですが、カエサルはそれには触れたくないようです。ともかく何とか持ちこたえて撃退し、基地に引揚げております。
上陸以来ここまでの経過日数は十日位でしょうか。
それからの数日間は暴風が吹き荒れ、敵味方ともに陣地に引きこもって戦争どころではなかった様です。
この間を利用して、ブリトン側はローマ軍を撃破すれば、莫大な戦利品が手に入るばかりでなく、永遠に侵攻者のもたらす害から解放されるだろうと、部族間を説き回って大軍を集めて押し出してきました。
後がないローマ軍は奮戦して辛うじて勝利を収めました。
またもや講和の儀式です。
カエサルは以前に申し渡した人質の数を倍にして、ガリアの地につれて来る様に命じております。結局この年のブリタニア遠征は、海岸から十数キロ内陸に侵入し、履行されるかどうかも判らぬ人質の差し出しの約束をさせた外は、損害だけが目につくのです。
ガリアの状況も気になるし、季節の変わり目である秋分はまじかに迫っていましたから、カエサルは焦っていたのでしょう。
ブリテン島はメキシコ湾流のおかげで温暖な気候に恵まれていますが、それでも緯度の高さで言えば、ドーヴァーでも樺太の旧国境線よりも100キロも北になり、カムチャツカ半島の南端と同緯度でありますから、秋の訪れは早く、海は時化るのです。
平穏な天候を推し量って、夜中過ぎに出港し、何はともあれ大陸に帰還しました。
ブリトンの戦士は全身不気味な蒼色に染めて、見るからに恐ろし気な者たちでありましたが、ドーヴァー海峡の恐ろしさに比べれば、何ほどのものでもありませんでした。
初めて経験する異常とも思えるほどの潮汐と、海峡を吹き抜ける暴風と高波に多くの船を破壊され、損害を出しながらも大陸に戻れたことは、ひとえに卓抜な指揮の賜物でありますが、運もよかったのです。
どの様な報告をしたのか、カエサルの手紙を受け取ったローマでは、その業績を讃えるため元老院が二十日間の感謝祭を決定しました。
結局、ブリタニアの部族で約束通りに人質を送って来たのは二部族に止まりました。
前55年の侵攻は、ブリタニアとはどんな所で、住民はどんな反応をするのか知る為に、ちょっと探りを入れて見ただけだ、とカエサルは言います。
翌54年に本腰を入れて侵攻する為に、古い船は修理し、経験を生かして多くの改良を加えて多数の新船を建造させました。こうして約六百隻の輸送船に二十八隻の軍船が確保され、これに商人たちの個人の船を合わせると、八百隻にも及ぶ大船団となりました。
一方ブリタニア側の事情はどうであったのでしょう。
テームズ河の向こう岸に、ローマ人がカシウェラウヌスと呼ぶ者を族長に戴いて勢い盛んな部族がありました。テームズのこちらの岸、つまり海側の土地に住む諸部族は、これまでカシウェラウヌスと絶え間なく抗争を繰り返していたのですが、ローマ軍が大挙して押し寄せるとの情報に震え上がって、今度ばかりは日頃の恨みつらみを一先ず飲み込んで、カシウェラウヌスに総指揮を委ねてその指図に従う盟約を交わし、ローマ軍を迎え撃つことに決しました。
例によって何月何日であったのか知る由もありませんが、五個軍団に二千の騎兵を加えたローマの大軍勢は、日没に出港して南西の風に乗って帆走していたところ、夜中過ぎに風が凪いで進めなくなり、潮に流されて日の出にはブリタニアの地が左舷後方に見えたと記されております。転流を待って前年に上陸に適すると目星を付けておいた地点を目指して、力の限り漕いだお陰で船団はすべてブリタニアに着きました。
ブリトンたちは、上陸地点に網を張って待ってはいたのですが、見たこともない大船団に恐れをなして丘の向こうに隠れてしまいましたので、拍子抜けの無血上陸を果たしました。
カエサルは推測の根拠になる様な、付近の地物の描写をしておりませんので、上陸地点を巡ってもいろいろな説が建てられておりますが、現ケント州の東の突端部から南西へ向かっての海岸であろうと言うことでは一致しております。
陣地を設営し、船はなだらかな広い海岸に停泊させ、一軍団と騎兵三百を守備に当てておいたので、後顧の憂いなしとして、敵を求めて夜中過ぎに全軍を進発させました。
翌日から両者が衝突しました。ブリトン側はローマ軍に苦戦を強いはしますが、統制のとれた戦陣の張り方を知らず、無闇に攻めかかっては敗れて後退し続けます。
三日目、軍団を三分して敗走するブリトン軍に追いついて、攻撃にかかろうとしていた矢先に、上陸地の陣地から騎兵が伝令としてやって来て、「前夜暴風が起こり、停泊していた船の錨が引けたり錨索が切れたりして互いにぶつかり合い、水夫も舵手も力を尽くしたがほとんど全部の船が壊れて海岸に打ち上げられた」と報告しました。
展開していた軍団を呼び戻して攻撃を一時中止し、カエサルは船の損害を回復する為に海岸堡に戻りました。約四十隻を失ったが他は修理が利きそうでした。大陸の部隊に船を造って送れと命じるとともに、現地では全船を修理が出来る様に海岸に曵き上げて堡塁で固め、既設の陣地と繋ぎました。
こう言った作業を十日間でやり遂げたと書き残しております。道路と言い橋と言い、ローマ軍団の土木工事の能力には敬服するのです。