ローマ軍は食糧と秣を徴発しながらの進撃で、苦戦の毎日でありましたが、この間にカシウェラウヌスに長い間圧迫され続けて来た部族の幾つかが、ローマ軍の保護を求めて降伏してきました。人質と食糧を差し出させて、これらの部族に保護を与え、多くの他部族の投降を誘っております。
ローマ軍は上陸以来100kmほど進攻して、テームズ河の浅瀬を渉り、カシウェラウヌスの領地に踏み込みました。危機に陥ったカシウェラウヌスは、海側の主要な四つの部族に「全勢力を糾合してローマ軍の海岸陣地を急襲せよ」と命じました。
命令は実行されましたが、ローマ軍の陣地に拠っての奮戦に歯が立たず、大損害を出して引き下がりました。
敗北の連続で多くの男が殺されたり捕われたりした上に、領地を荒らされた部族が一斉に背く事を恐れたカシウェラウヌスは、講和を打診する使節を送ってきました。
カエサルにとっての事情は今回も前年と同様で、ガリアでの思いがけぬ事件の発生に備える必要があり、大陸に帰って越冬する事に決めておりました。季節はもう夏も終わりに近く、何時までもブリタニアに関わってはいられないので、カシウェラウヌスの降伏の打診は願ってもない事であったでしょう。
人質を出させ、ブリタニアが差し出すべき年賦の額を決め、ローマが保護を約束した部族との紛争を禁ずるなどの条件で和睦しました。
多数の捕虜を引き連れ、海岸に集結して渡海の場面になるのですが、この部分は判りにくい記述になっておりまして、状況が明確には読み取れません。
カエサルも書きたくない場面であったのでしょうか、想像を交えて整理しますと;
1) 船は修理されていたが、そのうちの何隻かはその後の暴風でまた壊れていた。
2) 兵員の外に人質と多数の捕虜がいたので、一度の航海では捌ききれない。
3) 一回目の航海で帰還兵をガリアで揚陸し終えた船と、大陸で用意させていた六十隻の船はブリタニアに向かったが、僅かなものしか到着せず、後は押し返されあるいは流されてしまった。
カエサルは船の来るのを空しく待ち続けましたが、季節が進んで秋分も間近になり、時期を外すとこの島に孤立してしまう事を恐れ、残った船に無理を承知で兵員を満載して大凪を見計らって真夜中に海に乗り出し、夜明けにガリアの海岸に着きました。
カエサルの船団は、言ってみれば遊園地のボートを大きくした様な無甲板の簡単な作りの、しかも乾燥した木材が大量にあったとは思えませんので、生木を多く使った船の集団であったでしょう。作るのは簡単ですが壊れるのも簡単で、地中海でならいざ知らず波風の荒い北海や大西洋で使うなど、今の世なら処罰ものです。
カエサルは書いていませんが、恐らく戦闘で失った兵員よりも、海難での損害の方が多かったのではないかと疑うのです。
ブリタニアの遠征で得たものは何であったでしょう。
年貢を約束して帰ってきましたが、この後二回ほどの納税があって後には立ち消えになっております。また連れ帰った捕虜を市場に出しましたが、ローマでは学芸や工芸の才のある奴隷の価値が高く、ブリトンの様に反抗心が強く野蛮の域を出ない奴隷が高値を呼ぶわけがないのです。
キケロは友人に当てた手紙でカエサルの戦果に付いて、「手に入れた黄金は雀の涙ほどで、奴隷と言えばあまりに無知蒙昧で競りに出しても高値が付かぬ」と不満を吐露しておりまして、彼も戦利品のおこぼれに与っていたのは明白です。
ガリアでなら反抗する部族を一網打尽に捕まえて市場に送り込めますが、ブリタニアからでは輸送するには手段も暇もなく、出来たとしても引き合わないと言う事情がありました。
八百年ころ、ウェールズにネンニウスという作家が出まして、ブリトンの歴史を神話仕立てにした「ブリトンの歴史」と銘打った物語を残しております。
物語は天地創造から始まるのですが、年代の取り方はかなり無茶苦茶ですから、史実を知っている今の人たちには荒唐無稽の物語に思えるでしょう。しかし当時の人たちの伝承はこんなものではなかったのかな、と思うわけです。
カエサルのブリタニア侵攻の部分はこんな風に書かれています。
「後にローマの絶対権力者となるユリウス・カエサルは、ブリトン人には怒り心頭に発していて、六十隻の船でテームズの河口にやって来たが、ドロベルスと戦っている間に船は難破して粉みじんに壊れてしまい、兵士は殺されてしまった。かくしてカエサルは勝利を手にすることなく帰っていったのだ。
三年後、カエサルは大軍を三百隻の船に乗せて、またもやテームズの河口に現れ、戦争を再開した。ブリトンは河の浅瀬にローマ兵に知られぬ様に槍や矛を植え込んでおいたので、カエサルの兵士や馬の多くがここで殺された。カエサルはまたもや勝利も平和も得る事なく帰らざるを得なかった。
ローマ人は三度目となる攻撃を仕掛けて来た。カエサルの指揮のもとトリノウァントゥム(ロンドン)での会戦でブリトンは敗れた。これはキリスト生誕の四十七年前、天地創造から数えて五千二百十二年目の事である。」
アングロサクソン年代記にもカエサルの侵攻は載っています。
「キリスト生誕の六十年前、ローマ皇帝ガイウス・ユリウスは八十隻の船をもってブリタニアをものにしようとやって来た。激戦の末大損害を被ってガリアに引揚げた。
カエサルは六百隻の船をかき集めて再度やって来た。両軍は激突してローマの軍団長ラビエヌスは戦死した。防衛側はテームズで徒渉できる唯一の浅瀬に、無数の先を尖らせた杭を打ち込んだ。これを知ったローマ軍は渡河を断念した。その後も戦闘を重ね、多くの中核となる町を占領した後に、彼らはガリアに引揚げて行った。」