ローマでは女に市民権はなく、政治権力とは無関係でありましたから、ブリタニアの統治に責任を負うローマ人たちには先入観があって、ボウディッカがイケニの女王になった時、ケルトの女の社会的立場を過小評価し「女には何も出来まい」と、あのアルゼンチンの大統領と同じ様に見くびっていたわけです。
『ボウディッカは容貌魁偉で、荒々しい声の持ち主であった。豊かすぎる赤い髪は膝に達し、ケルト独特の撚り合わせた鎖を首にかけ、多色のチュニックを着た上に、厚手のマントを羽織ってブローチで留めていた。今、彼女は槍を握りしめて立ち、対峙するすべての者に恐怖を吹き込んだ。』
二世紀の歴史家ディオ・カッシウスは、見て来た様に書いております。
「ボウディッカ」はケルトの言葉で勝利を意味し、彼女はドルイド教の戦の女神「ブリガンティア」の化身であると考えられておりましたから、単なるイケニの女王ではなかったのです。ボウディッカという名前も個人名ではなく、宗教上の肩書きか位階の敬称ではないかと言う人もおります。
ケルトは部族ごとに独自性を保ち、他の部族と連合して事に当たることは殆どないのですが、その分断された小社会を横断的に纏めることが出来たのは、唯一ドルイド教の司祭階級でありました。この事は、ボウディッカが反乱に立ち上がった時に、日頃の不一致を忘れた様に諸々の部族が、熱狂して参加して来ていることの説明になるかもしれません。
反乱の兆しがあることは前もって判っておりながら、コルチェスターで留守をあずかる者たちは、援軍の派遣要請も域内の市民を避難させることもしておらぬし、堀を掘ったり土塁を掻き揚げたりしての防御態勢もとりませんでした。
怨みをかっていたコルチェスター近郊のコロニーは忽ち蹂躙され、神殿に立て籠った第九軍団も二日間の包囲戦で全滅しました。
反乱軍は荒れ狂い、商人たちのコロニーであったロンドンを焼き尽くし、ローマ人は勿論その同調者たちを皆殺しにし、犠牲者の総数は七万に達したとタキトゥスは書き残しております。
コルチェスターの留守居役カトゥスは、二百名ほどの兵に守られてガリアに脱出しました。
モナ島の攻略を中断したセウトニゥスは、ロンドンに向かおうとしておりましたが、ブリトンが捕虜をとらず皆殺しにしたために、第九軍団もコルチェスターもロンドンも壊滅したことを聞き知り、決戦場をイングランド中部地方に求め、軍団の再結集を図りました。
その場所が何処であったのか、研究者の間でも結論は出ておりませんが、ドーヴァーに発しロンドンを経由して北東にのびるウォトリング街道沿いに散在した、ドルイドの聖地の何処かであると言われております。
第十四軍団を基幹に、第二十軍団の退役兵、地方の砦を守っていた補助兵が集まって来て、一万人足らずの兵力にはなりました。
スウェトニゥスは彼我の圧倒的な兵力差を帳消し、更には優位に立つため慎重に会戦場を選んだ様です。反乱軍を誘い込むためにドルイドの聖地を、これ見よがしに破壊し穢して廻り、密林を背後にした小高い丘に布陣して待ち受けました。
反乱の初期には、ブリトンの諸部族はボウディッカの統制に服して、ローマ人も敬意を払うほどの戦術を展開していたのですが、これまでの勝ち戦に奢り高ぶり、この最期の決戦の時には、ボウディッカの権威はかなり色褪せていた様です。
数を恃んだブリトンは戦う前から戦勝気分で、大勢の家族や女子供を見物させるために連れて来ておりました。
ケルトの伝統的な戦い方は、敵に恐怖心起こさせ混乱させるために、顔も体も染料を塗りたくり、髪の毛は石灰で高々と固めて、狂った様に奇声を張り上げ跳ね回り、武器を打ち合わせホラ貝を吹き立てる体のものであり、経験を積んだ規律ある戦闘集団の戦術からはほど遠いものでありました。
ボウディッカの寄せ集めの軍は、部族ごとに様々な集団を作り、ローマ軍に乗せられて真正面からの衝突に誘い込まれてしまいました。
窮鼠となっているローマの戦争のプロ集団の意気込みはもの凄く、丘を登ってくるブリトンは投げ槍を見舞われ、補助兵の投石に撃たれ、歩兵に斬り倒され騎兵に踏みつぶされて敗退しました。
ローマ兵の復仇心は女子供にまで向けられ、この日八万人のブリトンが虐殺され、ローマ側の損害は四百とタキトゥスは書き残しております。
ボウディッカは戦場を逃れでて、毒を呷って自殺したと言います。
間一髪で属州を失わずに済んだスウェトニゥスは、この戦いのあと見せしめと個人的復讐にかられて、反乱に加わった部族の土地は勿論のこと、中立を保った部族の土地も見境なく荒らし回りました。
反乱軍に参加した者たちは、ローマ人が備蓄していた食糧を奪って食いつなぐつもりでいて作付けをしておらず、耕作を続けていた地域は、スウェトニゥスがやって来て荒廃させてしまったものですから、当然の結果として、飢饉が襲いかかってきました。そして土地の荒廃はローマ側にも属州税やその他の収入の激減の形で、すぐさま跳ね返ってきたのです。
そもそもこの反乱は、皇帝ネロの政治体質がブリタニア総督の失政を呼び、更には行政官のカトゥスが、ケルトの女王を軽んじたことから起こったものです。
反乱を起こした者たちを懲らしめるにしても、やり過ぎだと見る者は当時でも多くいたらしく、『この破滅の淵にまで至った反乱の原因は、ローマ自身が醸成したものである』とタキトゥスも批判しております。
この後、属州ブリタニアの統治手法は根本的に見直されましたが、その建て直しには長い時間がかかっております。反乱鎮圧の功績に対して、スウェトニゥスはそれなりの栄誉を与えられましたが、間もなく総督を解任されました。
ボウディッカは、アーサー王、ロビン・フッドと並んで伝説上の人物となり、今は50ペンス硬貨にその姿を見ることが出来ます。