kitombo.com | 海賊の話 | 2005年9月5日 
kitombo.com

海賊の話
「ヴァイキング その26 クヌート2」

裏小路 悠閑
9月5日

 エセルレッドの死去に狼狽えた司教や修道院長、州の長官に貴族や豪族たちは大会議を催し、万策尽きてクヌートを王に選びました。早速サウサンプトンに滞留中のクヌートに代表団を送り、エセルレッドの血筋の者の廃絶を誓い、クヌートへの臣従と平和を誓言して英国王となってくれる様に懇請しました。
 これに対し、クヌートは精神世界のことも俗世のことについても、教会と国民の信頼に十分に応えられる王になることを誓いました。

 この時、クヌートは二十歳。

 ところが、ロンドン市民と偶々そこに滞在していた貴族たちは、挙って王太子エドマンドを王に立てました。
 剛勇王と呼ばれるエドマンドは、欣喜して王家の故地ウェセックスに急行しました。そこでは歓喜した民衆に迎えられ、忽ちに支配権を確立しました。
 民衆の絶大な支持があって、エドマンドはかなりの規模の軍事力をもてるようになり、テームズの南側を殆ど回復した様です。

 一方、クヌートは五月の半ばにロンドン攻略に取りかかっております。
 ロンドン市を空堀で取り巻き、封鎖を完了しますが、市民の高い士気は衰えを見せず、長期戦の様相を呈します。
 そうしている間もエドマンドの活動が気がかりで、結局一時包囲を解いて新しい戦線に向かいました。
 両軍はテームズ南岸の現在のチャタム辺りで衝突し、エドマンドの圧倒的な勝利でこの戦いを終えておりますが、決着がついたわけではなく、両陣営にとって何とも要領を得ない、終わりの見えぬ戦闘が始まったに過ぎません。
 それだけエドマンドが善戦したことになりますが、クヌートにしてみればエドマンドが優勢になれば、サクソン人がいつ何時寝返り打つか知れたものではなく、大いに焦ったと思います。

 クヌートはロンドンを囲んだかと思えば、唐突に囲みを解いて掠奪と野戦に赴くなどして、1016年の夏至以降秋にかけて、数度にわたってエドマンドと会戦しております。
 グロスターシアにエドマンドがいると知り、クヌートは決戦を求めてやって来て両軍は対峙しました。
 ここであの策士のエドリックが、講和を進言しました。

 両者は、セヴァーン川の中州で会見し、意気投合して義兄弟の盟を結びました。
 エドマンドをウェセックスの王として認め、クヌートは残余のイングランドの王となることで合意しました。
 同時に一方が早世した場合、互いに相手の王位を継承する協約も交わしております。思いがけぬ展開で一件落着し、万民は胸を撫で下ろししたことでしょう。

 その年、つまり1016年、十一月三十日エドマンドが暗殺されました。
 策士エドリックの差し金であったことは明らかで、クヌートは有無を言わささず即座にエドリックと実行犯の二人を殺させております。
 協定により、クヌートはウェセックスを併合して、今や何処にも気遣いする必要のない形で、統一イングランドの王となったわけです。
 クヌートの治績は賞賛に値するものであることは疑いを入れません。
 しかし、当時の歴史記録は圧倒的に教会の管理下にあり、改宗後の彼の教会への並ならぬ貢献によって、彼の初期の冷酷無残な行為の多くは、記録から抜け落ちていてあまり目にすることはありません。
 エドマンドの暗殺は両王手打ち発案の時から仕組まれていたことで、クヌートがエドリックを使って実行した上で、口封じの為にエドリックを殺した、のではないかと私は思っているのです。無論この様なことは何処にも書いてはありません。

 エドマンド、享年・二十七歳。

 エドマンドには、乳飲み子のエドワード王太子が居りましたが、クヌートに殺されることを恐れて、側近が遠くハンガリーの隠れ家に移し、匿っております。
 この件については、機会があればお話しします。

 イギリスに関する限り、クヌートの治世が始まったことで、直接的なヴァイキングによる掠奪の時代が終わったと言ってよいでしょう。
 しかし、ヴァイキング的性向を持った王や豪族、更には出自も定かでない冒険者たちまでもが、覇権を手にする為にヴァイキング的手法で活動する時代に入りました。
 英国とスカンディナヴィア、そしてバルト海沿岸地帯は、こうした者たちの政治的攻略の目標となり、北辺ではこれに重ねてキリスト教の布教活動が巻き起す混乱の時代に入ります。

 十字軍行動に絡んでのノルマンの活動までを、ヴァイキング行動に入れたがる人たちも居りますが、ここでは扱わぬことにしております。

これまでのコラム
kitombo.com