kitombo.com | 海賊の話 | 2004年9月6日 
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海賊の話
「フランク族」

裏小路 悠閑
9月6日

 人類の歴史の半分くらいは、有史以前からの絶え間ない民族の移動が造り出したものかもしれません。そして現在も、土地の砂漠化による水・食糧・燃料の欠乏が引き起こす民族の移動や、政治や戦争に起因する移動が進行中です。

 ローマ人が蛮族ゲルマンと呼んで厄介視した者たちは、帝政時代となって暫くの間はライン川とドナウ川の北側に押し込められておりましたが、彼らは粗放な農業技術しか持ち合わせていなかったので、人口の増加とともに南下圧力が次第に高まって来ておりました。
 三世紀になると彼らゲルマンたちは、アウグストゥス帝が設定し、後の皇帝たちが補強したライン・ドナウの防衛線を各所で突破して、ガリアやトラキアの地を頻々と荒らす様になって参りました。
 そして、「パクス・ロマーナ」と呼ばれたあの平和な時代がそろそろ昔語りになり、衰運の兆しが現れ始めたこの時代、ガリアの地ではケルトの平民階級が経済の発展とともに没落して、奴隷とかわらぬ取り扱いを受ける様になっておりました。
 半奴隷の身分に没落した彼らは土地への付属物に外ならず、この動乱期には主人に酷使されるだけでなく、蛮族の掠奪を受け、違法なローマ軍団の徴発に加えて徴税使までもやって来て、全ての物を剥ぎ取られると言う悲惨な状態にありました。
 彼らも遂には逃亡奴隷などをも組み入れて一斉に蜂起し、積年の怨みを支配者たちに向けて襲いかかり、その凶暴な劫略ぶりは蛮族ゲルマンも顔色なしでありました。

 ゲルマンの侵寇と農民の蜂起は起こるたびに、勇猛な軍人や皇帝が軍団を率いて来て鎮圧を繰り返し、その度ごとに彼らはローマ人の歓呼を受け威信を高めることが出来たのです。
 属州イリリアに出自を持つプロブス帝(在位276~282)は、赫々たる武勲に輝くこの様な皇帝の一人です。彼は容赦なく殺戮を繰り返して農民逃亡奴隷の反乱を鎮圧し、ガリアを荒らすゲルマンを追ってライン川を越え、蛮族の地奥深く侵寇して多くの部族の降伏を勝ち取り、講和の条件として一万数千ものゲルマンの壮丁を徴発して、逃亡奴隷や捕虜とともに遠隔の地に入植させ、疲弊した民力の回復を図り、教育を施して辺地の防衛力の補強に当てると言う画期的な政策をとりました。 この様に強制されて入植した者の中には、望郷の念に駆られ家郷を目指して入植地を脱出した者もいましたが、武装してローマ領内を徘徊するうちに治安組織に絡めとられ、故郷に辿り着いた者は殆どいなかった、と言います。

 ギボンの「衰亡史」には、この様にして強制的に移住させられたライン川河口の、いわゆる低地地帯に住んでいたフランク族の特異な話が載っております。
 どれ程の規模の集団であったのか判りませんが、和平協定を結んだ際にプロブス帝に強募されたフランク族の一団は、ゴート族の侵入に備えるために遠く黒海沿岸のポントスの最前線入植地に送られ、望郷の念に苛まれておりました。
 彼らは、たまたま付近の港に停泊中の船団を乗っ取ることに成功して、海路を故郷のライン河口まで密行するすることに賭けたのです。
 この脱走者たちは、恐らく海に慣れていて、しかも黒海の水が故郷の磯にまで続いていることを、知識として持っていたのでありましょう。
 何しろポントスの主要都市シノぺからラインの河口まで、寄り道をせずに行ったとしても、大略4,000浬、7,000kmを遥かに超える航程になるのです。これが若し本当の話であれば、補給のためにあちこちで掠奪を繰り返し、土地の船乗りを捕らえて水先を強制する等して航海を続けたに違いなく、航程は倍くらいに伸びて何ヶ月もの時間をかけた大事業となったであろうと想像できるのです。

 彼らは、ボスポラス海峡もダーダネルス海峡も難なく通過して、エーゲ海沿岸のギリシャの村落や北アフリカの海岸地帯は勿論、油断を見すましてあのシラクサまでを含めて掠奪を繰り返しながら、ジブラルタル海峡を抜け、イベリア半島を周回して、遂にはライン川の故郷に帰還したと言うのです。
 そして、この大冒険航海の成功が切っ掛けとなって、彼らフランク族の目は海に向けられたとギボンは書き残しておりますが、信じます?

 彼らはもともと海に近い所に住んおりましたから、古くから海との関係を持っていたと見てよいのではないでしょうか。
 ともあれ、フランク族は大略この時期を境にして、多数の船を建造してサクソン族など他部族と協同して海に乗り出し、本腰を入れて大西洋沿岸のローマの属州を海賊として荒らし始めたのは事実です。

 ローマ海軍の基地と言えば、イタリア本土ではアドリア海のラヴェンナ、それから例の海賊の頭目となったセクストゥス・ポンペイウスに、第二次三頭政治の三人を加えた四人が和約のために会談した、あのナポリ湾頭のミセーノの二港のみであります。
 属州ではプロヴァンス海岸の現カンヌ市の近くに一カ所、黒海に四十隻の艦隊と支援部隊、ライン川とドナウ川に相当数の軍船を配置し、常時遊弋させて国境警備に当たらせており、そしてガリアとブリタニアの交通路の安全を確保するため、「ブリタニア艦隊」というのがありました。

 ローマ帝国の領土的野心は陸上に限られていて、皇帝たちが保有していた海軍力は、その広大な版図に比べればとるに足らぬ規模であったと言ってよく、このフランク族の大航海は全くの作り話である、とも言い切れないのです。

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