イングランドの指導者たちは苦し紛れにクヌートを王に選び、進んで臣従を誓ったのでありますが、幸いにしてこの選択は間違っていなかったのです。
クヌートは残酷で頑強で、敵対するものにとっては難儀なことこの上ない相手ですが、本来は冷徹賢明で妥協をすることも知っていた様です。
クヌートは現状分析を正確に行い、今は隆盛を極め、しかもエセルレッドの後嗣を後見しているノルマンディーと誼を通じ、少なくとも不意打ちは受けぬ様に政治的経済的な結びつきを堅固にしておくべきときであると考えましたし、国内の支持を確かなものにする為の方策も考えておりました。
1017年、エセルレッドの未亡人エマを王妃に迎えました。
エマは年上でありましたが、「年の差なんか」一国の統治の成否に比べれば何程のことがありましょう。
政略の為の結婚でありましたが、幸いにして互いの相性は良かったようで、エマはクヌートがイングランドに愛着を持つ様に常に働きかけ、成功しました。
彼は既にデーン人の伝統に従って結婚していて、エルギフと言う妻を持っておりましたが、こちらの方はクヌートのキリスト教への改宗後は教会の認めるものではありません。
クヌートは、イギリス人に人気の高かったエドマンド剛勇王の暗殺に関わった者たちを処刑して見せた上で、アングロ・サクソンの法律を遵奉し、デーン人とイギリス人の間に何の差別もせぬと宣言し、実行しました。
1017年、デーンのやり方を踏襲して国土をウェセックス、マーシア、イースト・アングリア、そしてノーサンブリアに四分し、それぞれに伯を置いて統治させることにしました。この分国統治はこのあと何世紀も英国に残ることになります。
1018年、これが最後となる「デーンゲルド」がクヌートに支払われました。
総額八万二千五百ポンドに達しております。
国内が落ち着いたのを見極めて、クヌートは船四十隻とその乗組員三千二百人を親衛隊として残し、その他の者、つまり傭兵たちには七万二千ポンドを支払って、それぞれの故国に帰還させました。
しかし、何と手際の良いことでしょう。
クヌートは封建制度の仕来りを無視して領地を持たず、代わりに地租を現金で徴収しました。デーンゲルドに変わるもので、単にゲルドとも呼ばれておりますが、戦乱が治まれば、この程度の負担は大きなものではなかったようで、国民も納得して納めた様です。
デンマーク王であったクヌートの兄ハロルド二世が死んで、1019 年クヌートは英国王であり、デンマーク王でもあることになりました。
ところが、クヌート等がイングランドの平定にかまけている間に、ノルウェーではオラフ二世(Olaf Haraldsson, 聖オラフ) が着々と足場を固めて、デンマークからの独立を果たしております。
オラフ二世は、ノルウェー王国建国の祖であるハーラル美髪王の五代目の孫に当たり、出自のはっきりしないオラフ一世(Olaf Tryggvason)とは関係はありません。
このオラフ二世は少年時代に「のっぽのトルキル」の一団に加わり、ヴァイキングとしてイングランドで暴れ廻った後に、トルキルと共にエセルレッドに味方する巡り合わせになって居ります。エセルレッドがノルマンディーから帰国する際に、実際に船団を提供し安全に渡海させたのは、実は、このオラフの指揮下にあったグループであるとされております。
この宗教的感受性の豊かな少年は争乱の合間にかいま見たキリスト教に、大いに心を動かされた様です。
1010 年頃、オラフはルアンに滞在中に改宗し、大司教ロベールの手によって受洗して堅固なキリスト教徒に変身しました。
未開の地から出て来て、人の手になるものとは思えぬ程、圧倒的な存在感を持つ石造の大聖堂で挙げられる華麗な典礼に接し、心に染みわたる説教を聞けば、大抵の者の心は宙に飛んでしまいます。
彼も恐らくは、そう言ったカトリックの魔力に魅入られた者の一人であったのではないでしょうか
彼はキリスト教を基礎とした国を造るべく、エセルレッドの後援を受けて多くの宣教師を帯同して帰国しました。クヌートによってノーサンブリアの太守に据えられたエイリクの弟・スヴェンが、この当時ノルウェー伯に任じておりましたが、これを簡単に打ち破り、1016 年には西部で既に実質上の王となり、更に勢力を伸ばす勢いを見せております。
先輩「オラフ一世」の布教方法は苛烈を極め、改宗を拒否する者を捕まえて来ては、干潮時に立てた杭に縛り付けて、満潮時に溺れ死ぬ様に計らうなど、長い恐怖を与える処刑を行ったりしておりますが、このオラフ二世も負けず劣らずで、改宗を拒否する者は即座に打ち殺し、あるいは傷つけて不具者にし、古い習慣を破棄し、祭祀の場所を打ち壊して教会を建てるなど、暴虐の限りを尽くしております。
彼は 995年の生まれとされておりますのでクヌートを同い年で、ノルウェー王国の再建に着手したのは二十歳の時のことであります。
過激な布教方法に激昂した有力な貴族や氏族たちが叛乱し、クヌートに救援を求めました。
宗主を自認するクヌートがやって来ると、オラフは耐えきれずに脱出してキエフ大公の下に亡命し、再起を図りました。
二年後、雪辱を期して侵攻して来ましたが、1030年武運つたなく戦死しました。
この時、敗戦の戦場を逃れ出た十五歳の王子ハーラルは、流れ流れてコンスタンティノープルの傭兵軍団ワリャーギ親衛隊に入り、帰国の後にはノルウェー国王となり苛烈王の渾名を得て、更にイングランドに覇権を伸べようとするのですが、これはまた先の話です。