kitombo.com | 海賊の話 | 2004年9月13日 
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海賊の話
「カラウシウス」

裏小路 悠閑
9月13日

 カラウシウスは、今日のベルギーのブリュッセル辺りを本貫とするケルトのメナピー族の一員で、それも卑賤階級の出だと言います。
 彼は、280年代にマキシミアヌス帝のガリア農民反乱を鎮圧する軍にあってよく働き、これが帝の目にとまって、猛威を振るい始めたフランク族海賊の鎮圧責任者として、ブーローニュを基地とするブリタニア艦隊の司令官に任命されました。

 彼は出撃する海賊どもはそのままやり過ごし、掠奪品を満載してホクホク顔で帰るところを攻撃して、船ごと捕らえるのを常套手段としておりました。
 取り戻した財貨は元の持ち主に返えさず、これらを全て着服してブーローニュ基地の要塞化を進め、海賊船もその乗組員も自分の艦隊に繰り入れ、フランク族からも傭兵を募るなどして、この蛮族を手なずけてしまいました。
 その罪状は明らかであり、轟々たる非難が巻き起こりました。
 信頼を裏切られたマキシミアヌスは、カラウシウスの逮捕と処刑を下命しましたが、カラウシウスは風を食らってブリタニアに逃れ、同島の防衛に当たる全ローマ軍団に多額の報奨金をバラまいて支持を取り付け、自分を「ブリタニア」皇帝に擁立させてしまいました。
 海賊騒ぎを利用してカラウシウスは皇帝を僭称し、ブリタニアはローマ帝国から離脱したわけですが、これが286年頃のことであります。
 失って見るとブリタニアの豊かさが改めて認識され、ローマはその威信と領土の回復に躍起となりました。

 カラウシウスはゲルマンの間に巧みに友好感情を植え付け、セーヌ・ライン両川の河口地域を押さえ、ガリアの大西洋沿岸に劫略の手を伸ばし、その威名はジブラルタルまで届くほどの一大海上勢力となりました。有能な皇帝を戴いた叛乱勢力の意気は天を衝くばかりで、その撃滅は容易なことではありませんでした。

 ブリタニア艦隊をそっくり盗まれてしまったローマは、多大なコストをかけて新たに艦隊を創設しなければなりませんでした。
 289年、そこそこの船隊を整え、ブリタニア奪回に乗り出しましたが、海戦における彼我の経験の差は如何ともなしがたく、反乱軍には叩かれるし、悪天候に遭遇して壊滅状態に追い込まれるしで、ディオクレティアヌスとマキシミアヌスの東西の両正帝は、一時ブリタニアの回復を諦める程になっておりました。
 マキシミアヌスは、ライン川沿いの国境線の防衛に専念し、婿のコンスタンティウスに西部ガリアとブリタニアのことを任せることにしました。
 293年、副帝に挙げられたコンスタンティウス(コンスタンティヌス大帝の父親)は、向背定まらぬガリアの軍団を麾下におさめる事に成功し、ブーローニュの攻略にかかりました。
 コンスタンティウスは、長大な防波堤を港の入り口に築いて封鎖して、ブリタニアからの救援を遮断し、苦しい戦いの末にこの要塞都市を陥しました。
 大陸の拠点を失って、カラウシウスのブリタニア艦隊を主軸に据える軍事機構は根底から揺らぎ始め、軍団内に動揺が広がりました。
 海軍偏重のカラウシウスは、ブリタニア軍団の内部に敵を作っていたようで、293年、ブーローニュの喪失後の恐慌状態の中で暗殺されてしまいました。
 海賊の上前を撥ねることで獲得したブリタニア皇帝の地位は、僅か七年の儚い夢で終わりました。カラウシウスはこの間に、独自の多種多様な貨幣を発行して、その財政力や文明度を誇示しておりますが、ブリタニア帝国の将来については、どの様な考えを持っていたのか全く知られておりません。
 完全な独立国としてやっていけると思ったとすれば、時期尚早であったと言わざるを得ません。

 内部で再叛乱を起こした反乱軍は、カラウシウスの下で財務官をしていたアレクトゥスを新ブリタニア皇帝に担ぎました。おそらく軍団兵は自分たちの思い通りになるアレクトゥスを皇帝に仕立てたのでしょうが、その才幹はカラウシウスには比べようもなく、彼は大陸の討伐軍の整備が日々進むのを、ロンドンにあって座視するだけでありました。

 296年、コンスタンティウスはセーヌの河口付近に(現在のルアーヴル辺りでありましょうか)一艦隊を置き、ブーロニュにも一艦隊を配置してブリタニア侵攻の時期を窺っておりました。
 侵攻側にどのような手違いがあったのか、セーヌの艦隊が逸り立って悪天候の中を突出して進撃を開始し、渡海を始めてしまいました。悪天候が幸いしてブリタニア艦隊と遭遇することなく、ワイト島の風下に集結することができ、守備側の目をかすめてサウサンプトンの辺りの何処かに、まんまと上陸してしまいました。 
 勇猛果敢な指揮官は、船団の全ての船に火をかけて焼き、自ら退路を断ってしまいました。
 僭帝アレクトゥスは、ブーローニュからのコンスタンティウスの侵攻に備えてロンドン近郊に布陣しておりましたが、討伐軍上陸の報告を受けて西方に急行せざる得ませんでした。ローマ軍と衝突した時ブリタニア軍は既に疲労困憊の状態で、ただ一度の会戦で事は決してしまいました。
 この間に遅れて進発したコンスタンティウスの軍勢は、ブリタニア南東部のケント州に上陸しましたが、そこには歓喜して出迎える者ばかりでありました。
 二人の僭帝の統治時代は、ブリタニアの民にとっては、良い時代ではなかったのではないでしょうか。
 十年に及ぶ分断の後に、ブリタニアはローマの懐に戻って来たのです。

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