スコットと言えば、今では紛れもなくスコットランド人の事ですが、ブリタニアがローマの属州であった頃には、スコット族はアイルランドの北東部、現在のアルスター辺りに根拠地をおく、ダル・リアタ族と呼ばれるケルトであります。
スコットの名は、ローマ人かブリトンかが、彼らを「強盗ども」の意味で呼んでいたのが定着したのだと言います。
そして当時のローマ人たちは現在のスコットランドをカレドニアと呼び、そこの住民はずっとカレドニア人であったわけですが、三世紀の終わりの頃、ローマの歴史家が彼らのことを、「体に色を塗りたくる連中」の意味でピクトと呼んで以来、これが彼らの通り名になってしまいました。ピクトが自分たちのことを何と呼んでいたのか、今では知る者はおりません。
つまり、ローマ時代には、現在のスコットランドはピクト族の土地であり、スコットとは関係がなかったのです。
アイルランドとカレドニアはともにその貧しさの故に、文明や平和を騙って収奪を目的としたローマの統治を免れた希有の地域です。
ローマに見捨てられたが故に、民族自決の自由を失う事はありませんでした。
言い換えれば、その自由は惨めな状況の所産であり、自由であるが故に文明の恩恵に浴することが出来ず、悲惨な状況から抜け出せないのでありました。
この時期のアイルランドの住民は未だに未開の時代を生きており、町と呼ぶに値するものや行政の中心地となるものは存在せず、殆どの者は農地の中に柵を巡らし石垣を防壁として、あるいは人口島を築いて危険を避ける手法をとって暮らしておりました。この様な事情はカレドニアでも同様でありました。
アイルランドのスコットの上には、他の大部族に依って立つ大酋長が君臨していて、スコットたちは何かと圧迫されておりおりましたから、彼らはブリタニアの西岸やカレドニアに移住する機会を虎視眈々と窺っていたのです。
ボウディッカの叛乱の後、彼の有名なタキトゥスの舅アグリコラがブリタニアの総督に就任して善政を布いてブリタニアに安定をもたらし、同時に災厄の基となるピクトの討伐にも力を尽くしましたが、こちらの方は成功したとは言えません。
爾来、恒久防衛線を敷き軍団を張り付けにしてピクトの侵入を防ぐ手法をとっておりますが、ローマの弱体化が彼らの入冦を招くことになりました。
四世紀、ピクトとローマ軍の間で、互いに勝ったり負けたりの戦闘が続きまして、救援を依頼されたスコットは得たりやおうとばかりに参戦し、ピクトの感謝を獲得しますが、そのままカレドニアの地に居座ってしまいました。
367~369年、382年とピクト・スコットが同盟してブリタニアに掠奪のための大規模な侵寇しておりますが、ちょうどこの頃にはブリタニア南部を狙って、大陸からサクソン海賊が頻繁と現れる様になっておりまして、属州ブリタニアは難敵に包囲された形になっております。396年には、ピクトは単独での侵寇作戦を展開しましたが、ゲルマン人の将軍スティリコに撃退されました。
大帝と呼ばれるほどの働きをして、崩れかかる帝国を支えて来たテオドシウス一世は、十八歳の長男を東ローマの、十歳何ヶ月かの次男のホノリウスを西の皇帝に据え、将軍スティリコを後見人に指名して、395年に死にました。
未だ少年とも言えぬ程の年端で即位したホノリウスは、長じても心身ともに虚弱でありましたから、帝国の維持と防衛は全て後見人のスティリコの肩にかかっており、彼は先帝の付託に応えて八面六臂の働きをします。
大帝の死を機会にゲルマンのゴート族の侵攻が激化しましたが、時のローマ人の精神の退廃による帝国の疲弊ぶりは凄まじく、愚行以外に消費できぬ程の富を溜め込んで居る者がいる一方で、国家はドナウ沿いの要塞の修復などは思いもよらぬ状態でありました。
国内で新兵の募集を行っても暖衣飽食に慣れた市民は逃げ回り、兵役免除を金で買う有様でありました。スティリコは脱走の機会を窺う兵士を餌でつり、奴隷でも兵役につく意思のあるものは自由身分に引揚げて、金貨二枚を与えるなどして、ようやく三万かそこらの兵士を集めることが出来ました。
西ゴートの諸部族はアラリックを王に推戴して、396年から401年にかけてギリシャからバルカンの劫略を経てイタリアに侵攻してきました。スティリコの奮戦により撃退しましたが、406年には東ゴート族がやってきます。もはやガリア全土の防衛は不可能であることは明らかで、スティリコはイタリア本土とローマ市を護る為に戦線を縮小することに決め、ライン川の防衛に当たる軍団を呼び戻し、フランク族からはローマへの不動の忠誠を、アレマンニ族には中立の約束を引き出して、この危機に対処しようとしております。
スティリコは、軟弱なローマ人の軍団よりも、勇猛な外人部隊に頼り過ぎたのでしょうか、ローマ人のゲルマンに対する抜きがたい蔑視感情と、華々しい活躍に対する嫉妬をかい、408年謀反の汚名を着せられ処刑されてしまいました。
スティリコと微々たる縁のあるものまで連座させられて、真に有能な人士が多数殺され、ローマ人軍団兵は昨日まで肩を並べて戦って来た外人同盟軍団兵の家族の殺戮に狂奔しましたから、三万以上のゲルマンを主体とする外人兵士は、ローマを逃れでてアラリックの陣営に合流してしまったのです。
410年、アラリックが再びやって来てローマ市を劫略する事態に立ち至り、兵力不足に悩むホノリウス帝は、ピクトやスコットが侵寇の機会を窺っているブリタニアから軍団を根こそぎ引揚げて、ローマの護りにつかせました。