ビード上人の記録や「アングロ・サクソン年代記」を見る限り、ゲルマンによるブリタニア征服が易々と進み完成した様な印象を受けますが、記録が勝者によってなされる限り避けがたいことで、ブリトンの反撃に大敗を喫したことなど、彼らに都合の悪いことには知らぬ顔を決め込んでいます。
429年頃、パリから南東に約200kmの町・オーセールの司教であったゲルマヌス(サン・ジェルマン)は、ブリタニアに流布するペラギウスの異端宗門を打ち破り、毒された門徒を回心させ、あるいは撃滅するために招かれて、現在のセントオールバンズ(ロンドンの北約30km)に滞在しておりました。
ペラギウス派は、かのヴォーティガーン等が信奉していた宗派であります。
内憂外患に四苦八苦していた、と私などが想像するこの時期に、ブリトンには神学論争に没頭し、互いに論難を浴びせ合う余裕があったのでしょう。
司教の滞在中に、サクソンとピクトが同盟して町に襲いかかってきました。
彼はキリスト教徒による防衛隊を組織して指揮をとり、伏兵を配置して頃合いを見計らって「ハレルヤ」の喊声とともに蛮族に撃ち掛からせ、撃退しました。
ヘンギストはブリタニアの覇王になることを夢見て、懸命に働きましたが、ケント一国を制圧して支配できる様になったのは、三十数年も後のことになります。
また、彼がハンバー川の流域に送り込んだ別働隊は、ブリトンの激しい抵抗に遭い、大打撃を受けて撤退しております。
サクソンの劫略と殺戮に撃ち拉がれた生き残りのブリトンたちに、指導者たちが現れ組織的な反撃が可能になりました。指導者の一人にはローマ貴族の生き残りらしいアンブロシウス・アウレリアヌスという人をギルダスは挙げております。
アンブロシウスの親は、紫衣をまとう権利を持っていたと言いますから、高官であったのは間違いないのですが、両親はともにサクソンのもたらした混乱の中で殺され、彼一人が生き残りました。アンブロシウスは武装したブリトンを指揮して、神のご加護により多くの戦場で勝ちをしめ、その名を後世に残しました。
それ以来、互いに勝ったり負けたりの戦況が全国的に展開した様です。
「サクソンが初めてブリトンに上陸してから四十四年と一ヶ月の後、バドンの丘(Badon=Bath-onのことで、ローマ時代に温泉地として繁盛したBathの付近)で包囲戦があり、極悪非道の敵を少なからず殺し、これが殆ど最期の戦いになった。
その年に、私はこの世に生をうけたのだ」とギルダスは書き残しております。
こうして一時期ゲルマンの侵寇が勢いを失っただけでなく、ブリタニアから脱出する逆方向の移民があったことは、大陸側の遺跡発掘からも証明されております。 この一世代ほど続いた比較的平穏な時期に、ギルダスは青年期を過ごした様ですが、本格的なサクソンの侵寇が再開される予感があって、警告的なあの本を書いた様です。
レジスタンスが盛んで、侵寇者の追い落としにもある程度成功したこの時期を背景に、アーサー王の勲功が語られ始めるのは、ノルマン王朝の十二世紀になってからです。アングロ・サクソンのウェセックス朝時代には、敵対者であるアーサー王を讃える様な伝説や俚謡が存在しなかったのは当然ですが。
時間的にも場所の上でも、一番間近に居たギルダスは、アーサー王のことは一言も述べてはおりません。一体どう言うことなのでしょうか。
神話的で架空の人物が歴史上の重大事件と結びつくと、繰り返し語られ、遂には実在した人物として史実化する例は、結構あるのではないでしょうか。
この時代のことで例をあげるならば、あのヘンギストとホルサはケントに住まう氏族のトーテムで「馬の精霊」であって、五世紀に大きな影響力を持ったらしいのですが、他ならぬビード上人が、アングル族の部族長か王として書いたことにより、八世紀には実在の人物として史実化されてしまい、以後に書かれた歴史書には必ずと言ってよいほど、アングル族の首領とか王とかの名前であると載る様になり、現在に至ります。
ヘンギストとホルサが実在した証拠は何処にもないにもかかわらず、ヴォーティガーンはヘンギストの妹か娘かを娶ったという話まで付け加えられる始末です。
ジェフリー・オブ・モンマスという人が、1139年に「ブリタニア諸王史」と言う本でアーサー王を賛美したのを機に、アーサー王は忽ちにして国際的な著名人となり、この本を主資料として多くの物語や詩が編まれ、アーサー王の史実化が進み、且つまた円卓の騎士など尾ひれがついて、華麗な物語になりました。
1191年、早速この「ブリタニア諸王史」に悪乗りする者が出てきました。
荒廃したグラストンベリー(サマセット州中央部)の僧院の坊さんが経営を建て直すために、アーサー王の墳墓を「発見」発掘して遺骸を僧院に移し、忽ち有名になりました。インチキであることは今では誰もが知っていることですが、この坊さんの詐欺行為のお陰で、グラストンベリーの名は廃れることはありません。
十八世紀、ギボンは「衰亡史」の中でアーサー王に触れておりますが、時代的な制約もあってのことでしょう、立場を決めかねている節が窺えて、この部分は微笑ましく読めるのです。
脚注では「私はウェルシュ(ウェールズのケルト)の吟遊詩人については不案内なので、アーサーの偉業については、ネンニウスの示す簡潔な状況証拠に信を置く」としながら、本文では「遂に科学と理性の火が再び灯されて護符は破られ、幻の構築物は霧散した。不当とするかも知れぬが、世論の変化は当然で、現代の求める厳正さは、アーサー王の実在そのもを疑問視するようになって来ているのである」と締めくくっています。因にネンニウスの作品は神話仕立ての物語であり、それほど歴史資料としての価値があるとは思えないのです。
ギボンの時代がちょうど個々の歴史家が、アーサー王の存在が史実かどうかの判断を下し、旗幟を明らかにしなければならぬ時期であったのかも知れません。
日本の歴史でいえば古墳時代の、しかも地球の裏側で起こったことですから、その真贋は私たち日本人にとってはどちらでも良いことですが、アーサー王の物語あるいはその原型となる詩や物語が、見下され抑圧され続けて来たケルト系の住民に、どれほど多くの希望と誇りをもたらしたか計り知れません。
そして今でも、アーサー王の実在を信じたくて、日夜奮闘しているプロやアマチュアの歴史家が大勢いるのです。