kitombo.com | 海賊の話 | 2004年11月29日 
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海賊の話
「アングロ・サクソン その4」

裏小路 悠閑
11月29日

 ヨーロッパの形成には、ローマン・カトリックがその原動力になったと言っても良いのではないでしょうか。と言うことで、それが例え海賊の話であっても、キリスト教との関わり合いは避けて通れない、と思い込んでいるのです。
 イギリスを含めドイツ系の文明圏にあっては、キリスト教と言ってもノルディックの遺産が多く取り入れられ、南欧の場合と相当に異なったものになっていると思います。

 戦士のためにあると言ってもよいノルディックの宗教は、こむつかしい教理や神学の類いに頭を痛める必要はなかったし、魂の救済に悩むこともありませんでした。信徒であるゲルマンの部族や氏族は、未開段階の平等社会を営んでいて、おしなべて貧困も無知蒙昧さもまた平等でありました。
 この種の平等社会、つまりノルディックの神々の下に在る様な社会では、文明の発展は望めないのです。
 ブリタニアに移住の後、農業生産は上がり急速に人口が増え、その多くが自由農民となった社会は、そのあり方も複雑になって、少数の者に富と知識が集中して、未開社会で機能した宗教では十分ではなくなりました。
 つまり発展のきざしが現れたのです。
 現に、大陸のゲルマン・フランク族などはキリスト教に改宗し、その布教と不可分であるローマ式の教会組織運営の手法を国家経営に取り入れ、当時唯一の知識階級である聖職者を政治に参加させたお陰で、急速な発展を遂げていることは、サクソン・イングランドにも伝わっていて、彼らはその成り行きを多大な興味を持って観ていたに違いないのです。

 キリスト教はローマ帝国からの最後の贈り物としてブリタニアに伝わり、アングロ・サクソンが侵攻して来たときには、既に多くのブリトンはキリスト教徒でありました。
 ローマの軍団は去り、その政治機構が壊滅して文明社会に見捨てられたかに見えたウェルシュでありましたが、キリスト教の伝道者たちは忘れてはいなかった様です。サクソンの殺戮を逃れ、西部の山地や湿原地帯で生き延びた彼らは、強い絆で結ばれていたブルターニュ地方から新たな伝道師たちの流入をうけ、今日私たちが「ウェルシュのキリスト教」と呼ぶ、ローマとは絶縁状態の独自色の強い宗派を造り上げておりました。
 五世紀から六世に及ぶこの苦難の時期に、キリスト教はウェルシュの生活に根を下ろし、ケルトの吟唱詩人の歌や詩とともに彼らを支え、彼らを沃野から駆逐し、ウェールズの荒涼とした山地や湿原に追い込んだ憎いサクソンを、蛮族と見下し溜飲を下げるよすがとなったのです。
 こうした苦難の故にキリスト教が根付いたのかも知れません。
 皮肉なことに、後にヴァイキングが襲って来て、ウェセックスの一部を残してサクソン・イングランドの全土を蹂躙した時、アングロ・サクソンたちはその昔彼らの先祖が劫略したウェルシュと同じ境遇に陥り、同じ経過を辿ってキリスト教への信仰を加速させ、深めるのです。

 このウェルシュのキリスト教徒たちの、先祖を殺戮し土地を強奪したアングロ・サクソンへの憎しみは強烈で、怨み重なる彼らにキリスト教を伝え魂を救済し、結果として天国へ送り込むことなど「まっぴらごめん」なのでありました。
 そこに在りながら、ウェルシュからサクソンへの伝道は起こりませんでした。
 後に、この事がビード上人の憤激をかうことになりますが、後々の発展という観点からは、この偏狭なウェルシュの教えを受け入れるより、却ってその方が良かったのではないでしょうか。

 本格的なイングランドの福音化の波は、アイルランドに発しスコットランドを経由して来たものと、ローマからやってきたものが、この島で出会うことになります。
 おおよそヴァイキングの侵攻の始まる頃までは、この島にはケルトのドルイド教、ノルディックの神々への信仰、ウェルシュのキリスト教、アイルランド系のキリスト教、ローマンカトリックが混在していたと見てよいのではないでしょうか。

 アイルランドとかアイルランド人と聞くと、知り合いになったアイルランド人たちの、もの柔らかで歌う様な話し振りと、優し気な立ち居振る舞いとともに、どうしたわけかすぐに聖パトリック(389~461) の名前が浮かんでしまうのです。
 パトリックはパトリキウスと言うローマ名を持ち、ローマ市民権を持ったブリトン、つまりケルトですが、未だ教皇の権威が確立されていない時期に、ローマの大司教の権威を認めるガリアの教会に学び、ブリタニアに帰るとセバーン川の上流に居を構えました。
 五世紀の初め、アイルランドのスコットが襲って来て、パトリックは彼らに連れ去られましたが、彼は432年から亡くなるまでスコットの地で布教に没頭し、多くの修道院を設立しました。後にこれらの修道院はサラセンの侵攻を逃れて、大陸から渡って来た学者たちの避難所となり、他の地では失われてしまった学術が保存され、学問が興隆し、多くの有名無名の聖者たちを輩出します。
 布教の熱意に燃えるこれらの聖者たちが、夕べに農家の納屋の前で一刻の説法をするために、日中を掛けて荒れ野を渡って来る姿は、初期のキリスト教の再現であり、多くのものの心をとらえたのです。伝道者たちは清貧に徹し、布施として得た物はすべて貧者に施し、人々の尊敬を獲得しました。彼らはスコットランドに渡りピクト族を教化しますが、聖コルンバ(521?~597) と敬われる伝道者は、スコットランド西岸の小島イオナに修道院を建て、おおくの伝道者の休息と瞑想の基地を提供し伝道の発源地としました。彼らの伝道はサクソンの領土の広範な地域にまで及びましたが、組織化がなされておらず、伝道者個人の熱意によるものでありました。
 アイルランド・ウェールズ・スコットランドと言ったケルトの地には、聖パトリックの思惑に反して、ローマ教会から独立した国民的教会が出来上がり、やがて南からやってくるローマ教皇の教会との間に軋轢を生むことになります。

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