kitombo.com | 海賊の話 | 2004年12月6日 
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海賊の話
「アングロ・サクソン その5」

裏小路 悠閑
12月6日

 サクソン諸王国は互いに熾烈な覇権争いをする傍ら、ウェルシュとの境界紛争にも力を割かねばなりませんでしたが、事情はウェルシュ側にあっても全く同様で、部族間・氏族間の争いの絶えたためしはなく、力を蓄えてはサクソンに挑んでおります。
 こうした混乱のなかで、560年、ケント国の王・エセルバート(在位560~616)がフランクの王族の娘ベルタを妃に迎えました。
 まさか恋愛結婚ではないでしょう。
 ケントの位置を考えれば大陸との交流があったとするのが順当で、両者は互いに相手の事情に通じていて、姻戚になることでの利益があったに違いないのです。
 この時代、フランク王国にあっては、フランク族の慣習によって領地の分割相続が繰り返しおこなわれておりますが、このことが王国内における内訌の種となって結果的にはメロウィング王朝の衰退に繋がって行くのです。
 この結婚は、こうしたフランク王国の国内の宗主権争いと大いに関係があるだろう、と想像してしまうわけです。
 このケント王の妃はキリスト教徒で、王室礼拝堂付きの司祭を連れて来ることを許されました。

 西ローマ帝国が統治能力を失って以来、後にヨーロッパとなる地域は混沌と暴力が支配する世界に堕ちておりました。僧侶であれ武人であれ、とにかく何人であろうとも、かつてのローマ皇帝が持っていたような権能を行使して、早急に秩序が回復される日の来ることを万民が望んでいたのです。
 とりわけこの当時のイタリア人たちは、東ゴート族ランゴバルド(ロンバルド族)の激烈な劫略を受けて、塗炭の苦しみを味わっておりました。
 この時期の事情をギボンは「衰亡史」に生々しく描き出しており、読者をしてその場に居合わせている様な気分にさせてくれます。

 ローマ人たちが等しく「安全はともかくとして、今はとにかく飢餓から救い出して欲しい」と願うまでに混乱を極めた時に、カトリックではただ一人「大教皇」と呼ばれるグレゴリウス一世(Gregory the Great、在位 590~604) が現れて、宗 教界のみならず、俗界にも大きな影響を及ぼし、この世に安定を取り戻しました。
 その名にちなむグレゴリオ聖歌により、この教皇は日本人にも馴染み深い偉人の一人でありましょう。
 彼はローマの裕福な貴族に生まれ育ち、一時はローマ市の知事として行政手腕を発揮したものでありますが、何を思ったのか、或る日突然に特権も職務もなげうって、一介の修道僧となって、カエリウスの丘に登ってしまいました。
 勝ち誇った蛮人どもが包囲するする中にあって、もはや守るべき物が何もないローマ司教区が、外に人なくグレゴリウスに任されました。
 590年、懇請されてローマ司教の座につくや、ローマの初代皇帝オクタウィアヌスさながらに聖俗両面の組織化への配慮を示し、敏腕をふるって僅か十数年の内にローマ帝国の復活を思わせるほどに、秩序回復を成し遂げたのでした。
 グレゴリウスが起ち、権威を確立したことは、ローマに隣接する地域のみならず、遠隔の地の王や司教や僧侶、一般の民衆からも喜びを以て迎えられました。

 ビザンチン帝国ではコンスタンティノープル大司教が、「全教会の総大司教」の称号を持ち、大きな支配力を持っていたのに対し、グレゴリウスが教皇権を確立するまでのローマ司教はと言えば、ローマ教会がキリストの十二使徒の筆頭であったペテロの創建になったという伝承と、ローマが古代ローマ帝国の首都であったと言うことで、敬意を払われ尊崇されて教皇とか法王 (ラテン語でPapa、英語で pope) と呼ばれてはいましたが、他の大司教との間には確たる権威の差はありませんでした。
 グレゴリウスはガリアやアフリカ、ダルマティアの信者からの寄進で潤沢な資金を持っておりまして、彼はローマの窮民の救済のための資金を提供しました。
 名目上の宗教界の首長であった彼は、こうした活動を通じてローマの世俗的統治権をも一部掌握し、次第に権威を高め、ついには西ヨーロッパの幾多の教会に向けて、教義のこと政治のこと、社会一般のことについて教書を下すほどになりました。
 グレゴリウスの教書は宗法上の拘束力を持たぬにも関わらず、道義的・倫理的な権威を持つものとして受け取られる様になって参ります。

 やがてグレゴリウスは、独自色の強い教会を持つ南フランスなどよりも、未だ教化の及んでいないゲルマンの地や、サクソン・イングランドへの伝道に格別の思いを抱いていたようで、この仕事を当時「祈り、働け」に要約される会則を持ち、修道院長を選挙で選ぶなど、斬新な教団運営をしていたベネディクト会の修道院長のアウグスティヌスに委嘱しました。

 597年、アウグスティヌスは四十人ほどの修道士を引き連れて、ケント王の妃がキリスト教徒であることだけを頼り、恐るおそる野蛮国に違いないこの島に辿り着きました。教皇グレゴリウスからは、野蛮人の偶像崇拝の習慣をかき乱すことは極力避けて、漸進的な布教をする様にと明確な指示を受けておりました。
 この賢明な妥協的な方法はひとまず成功して、ケント王はキリスト教に改宗し、国民の多くもこれに倣って改宗しました。
 部族社会にあっては、何事も集団的に行われ、改宗もまた例外ではありません。

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