kitombo.com | 海賊の話 | 2004年12月20日 
kitombo.com

海賊の話
「アングロ・サクソン その7」

裏小路 悠閑
12月20日

 ケルト系キリスト教がノーサンブリアの衰退を機に、南部のサクソン王国にまで布教の手を伸ばし、おおきな成果を上げ始めたことは、彼らの布教がケルトの領域に止まる限りは大目に見るつもりであったカンタベリー側にとって、到底見過ごしに出来ぬことであり、ノーサンブリアに再攻勢をかけました。
 カンタベリーの教会は支配階級を主たる布教対象としていたのに対し、ケルト系キリスト教は民衆の教化に力を入れており、七世紀半ばのこの時期、各地で両派の信徒が入り交じっていたわけで、ノーサンブリア王国の宮廷にあっても事情は同じでありました。
 両派の信徒が混在したことによって、キリスト教徒にとって最も重要な祝日である復活祭の期日が両派で異なっていたために、宮廷内で何かと不都合が生ずるのでありました。
 女の方が断然宗教感覚が豊かと言うか、敏感と言うか、今回もまた王妃が事態転回の端緒を作りました。
 妃は国王オズウィ (641-670) の尻を叩いて宗教会議を開かせ、両派の聖職者に討論をさせてローマ教会が聖ペテロの正当な後継者であることを確認し、以後はカトリックの定めた期日に復活祭を祝うことに決めさせたのでした。
 この決定に従えぬケルト系の僧侶は北方の荒れ野に引揚げ、聖カスバートの様に新しい宗規を受け入れたものは、カトリックの為に働くことになりました。
 これ以降、ノーサンブリアには教会を中心とした文化が盛んとなり、北方のゲルマンやフリージアンの土地への進出を目指すフランク王国や、ローマ教皇の要請に応じて、この地からアルクインなど多くの優秀な聖職者や学者が大陸に渡り、カロリング・ルネッサンスをもたらしました。
 このことが、後に宗教的な反動ととして降り掛かって来る素地となります。

 ノーサンブリアを衰退に追い込み、ますます勢い盛んなマーシアの王ペンダは、国内でのキリスト教の布教を奨励することはしませんでしたが、故障を言い立てることもしませんでした。ペンダの後継者はノサンブリアの王族の娘を妃に娶り、カトリックの宣教師たちを伴って帰国し、マーシアの改宗に寄与します。

 八世紀以来、サクソン・イングランドの人民は挙ってキリスト教に帰依しました。

 八世紀はマーシア王国の最盛期です。サクソン王国の殆どすべてがマーシアの威令に伏しなびき、当時の国王オッファ (757-796) は覇王を自称して、フランクのカール大帝 (742-814) と同格として振る舞い、世間に誇りたかった様です。
 当時、ノーサンブリアにあって教育者、神学者として名高いアルクインが、オッファとカール大帝の仲立ちをして様で、両者間の交流がなされますが、記録を見る限り、両王国の関係には結構軋みが感じられます。
 カール大帝は、オッファの娘を息子の嫁にと言い出しました。体のいい人質でありましょう。これに対してオッファは大帝の娘ベルタを息子の嫁にくれるならば、と要求して大帝を怒らせてしまい、イングランド商人はフランクの土地から閉め出されてしまいます。
 この後も言葉遣いは丁寧でも、フランク側は港を明けたり閉じたり、時にはイングランドからの輸入品の品質に苦情を述べたりしておりますし、マーシア王に国を追われた者たちに避難所を提供しております。この間、マーシア側は通貨の質を上げるなどして、大陸との交易が円滑に運ぶ様に精一杯努力しております。
 聖者アルクインの言葉の力により、オッファのカトリックへの傾倒ぶりは並大抵ではなく、土地所有者一戸につき1ペニーを徴収して、「ペトロ献金」と呼ばれる上納金を教皇に差し出すことを始めました。当時の1ペニーは現在からは窺い知れぬ程の値打ちがあり、後の世の国王たちに悩みの種となるのです。
 何れにしてもカール大帝は、オッファに対してあまり良い感情を持っていなかったのではないか、と思われるのです。

 何世代かを経て、スコットランド・アイルランド・ウェールズのケルト系教会も他のヨーロッパ諸国におけると同じく、カトリックに合流します。

 アングロ・サクソンの諸王国の初期における教会への支持は、王権の確立、封建制度への移行、国民の一体感の醸成、組織による行政、司法と徴税の技法発展に繋がり、国家形成への大いなる推進力となりました。
 部族による政治支配からぬけだして、民族国家の建設に向かって動き出したのです。
 ゲルマンの大移動の際、大陸ではアングロ・サクソンがやった様な、ローマ帝国の遺産の徹底的な破壊は起こりませんでした。その結果、フランク族は早々に部族中心の社会から抜け出し、階級制度を徐々に組み上げてローマの官僚組織に代え、より進化した国家を建設してラテン化し、フランス人になりました。
 アングロ・サクソンも、この間の事情については大陸との交流を通じて知っており、すべてを破壊し尽くし荒れ狂った過ぎし日を悔いている様に見えます。

 かくして、ローマ教会の中央集権制度、目的に合致した機構の統一性は、王国の政治のあるべき姿を示唆するものであり、教会の管理手法は王国の政府のモデルとなりました。
 教会は布教や教会財産の維持拡大のために、世俗の権力の後ろ盾を必要としており、世俗権力である国王たちは教会を取り込んで、その地位に神聖味を付け加え、より高度な忠誠心を臣下に求めることが出来る様になりました。
 当時、聖職者は唯一の知識階級でありましたから、司教や高級聖職者たちは王たちの秘書官となり、私設大臣となって諮問機関を構成し、官僚の役目を果たしまして、グレゴリウスに始まった新しいローマの統治手法は、教会から世俗社会に広まって行ったのです。

 この様に聖職者が政治の中枢に関与することにより、ヴァイキングの侵寇の前後の時代には、国家と教会の区別が判然としない社会が現れます。

これまでのコラム
kitombo.com