ウェセックス王国はマーシアに忍従しながら、西方のデヴォンとコーンウォルを斬り従え、エセックスを攻めケント王国を支配下に置き、何時の日にか覇権をのべようと機会を窺っている様に見えます。
ウェセックスにイネ (688-726) と言う名君が現れ、同国の基盤は盤石のものとなりましたが、八世紀末に王位継承で揉めて、王位はマーシア王オッファの娘婿となったベルトリックの手に移り、継承権者の一人である「エグバート」はオッファと新王に追われてカール大帝の下に亡命し、三年とも十三年とも言われる時間をその膝下に過ごしました。
この間に、エグバートは多くのことを学んだに違いありません。
ゲルマン系の王国では、王は最高神オーディンを祖とすると言われる高貴な血筋の一族の中から選ばれますが、ウィタン (witan) と呼ばれる賢人会議があって、ある一定の制約はあるものの、この家系から王を選ぶ権利を持っておりました。
賢人会議は主立った部酋によって構成されておりましたが、彼らがキリスト教に改宗した後には、大司教や司教や修道院長もこれに加わる様になりました。
会議は悪王を退位させることも出来ましたし、戦時には未成年の王を建てることも拒否できました。
マーシアの傀儡ベルトリックが死んで、802年エグバートが王に選ばれました。
エグバート自身、余程に有能で魅力的な人物であったのでしょうが、先王ベルトリックの子息を飛び越えての即位には、彼に好意を寄せるカール大帝やローマ教会の意向が働いていたと考えられています。
エグバートはサクソン・イングランドの政治的統一を目指して各地に転戦しますが、国境を越えて全土を覆う教会組織の後援があることで、常に優位な立場を保持できたのではないでしょうか。
825年、アングロ・サクソンの歴史に決定的な意味を持つマーシアとの会戦に大勝しました。その結果を見て、ケント・エセックス・サセックス・サリーは戦わずに降伏し、マーシアと交戦中であったイースト・アングリアは、エグバートを最高君主として臣従することを誓い、829年にマーシアが降伏すると、ノーサンブリアも反エグバートの旗を降ろして、その宗主権を認めることになりました。
830年、エグバートはウェルシュの土地ウェールズにも派兵し、表面的にではあっても降伏させましたから、ここに政治的な統一が完成し、短命ではありましたがエグバートは掛け値なしの覇王となりました。
ここで、ブリタニアやサクソン・イングランドの呼び方を終わりにして、以後はイングランド、あるいは英国と呼ぶことにいたします。
統一がバタバタと言った感じでなされた裏には、既に散発的になされていたヴァイキングの来冦の影響もあった、と見てよいのではないでしょうか。
「年代記」の 787年の条 (実際には789年であります)
『ウェセックス王ベルトリックがオッファの娘を妃に迎えたこの年、北方人が乗った三艘の船が「泥棒の国」から初めてやって来た。彼らの素性を知る由もない州の代官は、役所に連行しようとして現場に赴き、その場で殺された。
これらの船は、デーン人がイギリスの国土を窺う最初のものである。』
異教徒どもの来襲に備えるため、792年、マーシアの王オッファはケントの防備を固める努力をしており、「年代記」には載せられていない侵攻が、幾つもあったのではないでしょうか。
「年代記」の793年の条
『ノーサンブリアでは、民衆を震え上がらせる恐ろしい前兆とともに、この年が明けた。巨大な旋風が起こり、雷光は空に満ちてあたかも火竜が駆け巡るが如く、引き続いて深刻な飢饉が起こった。六月の ides の六日前(六月七日)異教徒の一団が、かの「聖なる島」の教会を襲って打ち壊し、掠奪をして聖職者たちを殺戮した。』 聖なる島とはリンデスファーン島のことであり、次の年もノーサンブリアの修道院が襲撃されております。
歴史の教科書などでは、エグバートによる政治的統一がなるまでの時代を、サクソンの七王国時代と単純化してあらわしておりますが、七大国に交じって多数の小王国の存在があり、これら小国は生き残りを賭け右往左往しておりました。
大国は小王国の動向をうかがいながら互いに覇権を賭けて争い、同時に北からのピクト族やスコット族、西からのウェルシュの侵寇に対処しなければなりませんでしたから、内陸の抗争に全精力を注がざるを得ず、長い海岸線の防衛にまで思いが至らぬ時代でありました。
そして今や、民衆は農民になりきって、かつて自分たちの先祖が海洋性の民族であったことなどは、完全に忘れ去っているのであります。
加えて、交易路としてのイギリス海峡は、永らくフリージア人が押さえていて、それなりの安定を保っていたのですが、フランク王国が侵攻して来て滅ばされて以来、この海域は軍事力の空白地帯となり、ヴァイキングたちが大手を振って活動できる様になった事情もありました。
ここに来るまで、戦闘を日常のこととして慣れ親しんでいた筈の、イングランドの諸王国もフランク王国も、ヴァイキング時代と言われる八世紀の終わり頃から十一世紀の中頃までの長い間、北方人の跳梁跋扈を許してしまったのは、何故なのでしょう。
何か不思議な感じがしませんか。