kitombo.com | ドクターいわくらの不・思・議・探・検 | 2004年3月22日
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ドクターいわくらの不・思・議・探・検
「宮崎旅行/本野原遺跡」

あきら@すずき
3月22日

○残念無念の本野原遺跡
 霧島神社と元宮の見学に熱中しているうちに予定時間が大幅に超過してしまったため、省略されてしまったのが「本野原(もとのばる)遺跡資料館」見学である。私としては残念、極めて残念なことであった。
 尤も本野原遺跡跡地は早々に埋め戻されて、いまは畑になっているとか、聞いていたので、見学すると言っても資料館に展示されたものを観る他に方法が残されていないわけであり、中止とは言っても悔しくはないが、その場所に立って周辺環境を見ておきたかったのである。
 その理由は2つある。1つは北北東から南南西に向かう柱列の先、はるか遠くにあるという鰐塚山の景観を現場に立って確認するためであり、もう1つは、その柱列の南南西端に大きく広がる「石に囲まれた広場」が何を意味するのか、柱列とのつながりにおいて考えて見たかったということだ。少なくとも、柱列と石の広場はワンセットのものだろう。
 詰まるところ、北北東に向かう柱列と南南西の石の広場は一体のものであり、それははるか遠くに見える鰐塚山を仰ぎ見て祭りを行なうための祭りの広場であったに違いない、というのが私の思い込み(仮説)であり、その広大なスケール感を持って縄文遺跡を見直してみたいというのが目的だった。それができなかったのは、本当に悔しい、残念無念であった。

○寺野東遺跡とそっくり?
 あれは何年前だったのか。確か、平成7年(1995)2月のことだったと思う。筆者は寺野東遺跡を発掘調査中の岩上照朗さん(当時=栃木県埋蔵文化財センター第二課長)と初山孝行さん(当時=同調査部主査)を訪ねたことがあった。
 その頃、直径100メートル(内径)を越える環状盛土遺構が出現したということで話題になり、多くの考古学関係者が何のために作られたのか、首をひねっていた時だった。常識的な見解として「集団墓地説」が出されたが、墓坑は土塁の内側からは一個も発見されなかった。
 面白い見解として、「祭祀のような行事かパフォーマンスを行なう集会場だったのではないか。その形状から、さしずめ“縄文スタジアム”といったところでしょうか」というのも提示され、その通り、土塁の内外から数多くの土偶や石棒などの祭祀用具が発見された。寺野東遺跡は、どのようなお祭りが行なわれたか、不明であるが、とにかく、「古代祭祀の広場」であることは間違いのないところであった。
 どのような祭りの広場であったのか。ヒントはいくつもあった。広場の中心に立って東27度を見ると筑波山が見える。その角度は冬至の日の出方向である。そして、後ろ側、西207度を見ると、ちょうど土塁の高さが変わるところに当たる。つまり、真西を中心にして南北両側へ27度の開き角度の範囲が一段低くなっており、南北両側へ15度の開き角度の範囲がさらに低くなっているのである。
 どういうことか? 土塁の高さが変わるところで、東の地平線から昇る太陽の位置を観測することで季節の移り目、変わり目を予め知ることができたということだ。日の出の位置、日没の位置が変化するのに応じて、さまざまな祭りが企画されたのではないだろうか。

○真南に見える鰐塚山は何か?
 筆者は鰐塚山を訪れたことはないし、それがどんな山なのか、聞いたこともない。しかし、いつだったか、筆者のごく親しい友人である、吉祥姫こと田中正勝さんから「柱穴は出雲神殿の参道の跡だったと考えると面白い」とシミュレーションした絵を見せられたことがあった。それはシュメールのジグラットを写真の中に嵌め込んだもので、ジグラットが鰐塚山を礼拝する拝殿になっていた。
 筆者は「面白い」と思った。柱穴の列はジグラットに昇る参道の柱穴になっており、それを登り切ると拝殿があった。その拝殿は明らかに鰐塚山を意識しており、石の広場は、その場所が鰐塚山に降りた神様を広場に迎えてお祭りする聖域であったことを物語っており、全体の設計思想が、そういう視点から見て行くと合理的に組み立てられていることが判る。
 しかし、寺野東遺跡から見た筑波山は東27度方向、つまり、冬至の日の出方向に位置しているのであるが、鰐塚山は南南西方向に位置している。北北西から南南西に整列する柱穴の列が石の広場にぶつかって途切れ、その向こう側に鰐塚山が見えるという位置関係になっているのである。
 こうなると中天に輝く太陽を礼拝する祭りの広場として設計されたと言いたくなってくるのであるが、太陽信仰は、そんなに古くからあるものではない。おそらくは月の動きと関係するものではないかと思われる。それはおいおいと分かって来る。宮崎県には女性中心の祭祀が多いからだ。多分、女性の生理に対応する月の祭りがあったのかもしれない。

○アカホヤ火山灰の意味
 この遺跡において注目しておきたいもう1つのポイントは、縄文時代の早期と後・晩期を上下に区分するアカホヤ火山灰層であろう。この遺跡はずっと継続していたのではなく、文化的断絶期があったということだ。
 2002年に発表された「縄文集落本野原遺跡」(宮崎県宮崎郡田野町教育委員会)によれば、「本野原遺跡の立地する元野地区及びその周辺の遺跡からは、縄文時代早期にピークをもちながら、旧石器・縄文時代を通じて、遺跡が絶えることなく継続する状況を見ることができる」と書かれているが、本当にそうだったのであろうか。中期の遺物が目立たないのはいったい、どういうわけであろうか。
 もっと具体的に言えば、分厚い火山灰に覆われた大地はいったい、何を物語っているのか? 約6300年前に起きた鹿児島県沖、硫黄島の海底火山、喜界島の大爆発は九州全域に壊滅的な被害をもたらしたことが分かっている。考古学関係者は、どの程度、この事実を把握しているのであろうか。事実を直視し、冷静に考えて欲しいものである。そうすれば、継続しているか、絶えてしまったか。間を置いて繋がっているのか。判断できるはずである。
 彼らは突然の大噴火に驚いて海に緊急脱出を図り、中には太平洋を横断してアメリカ大陸へ移住してしまった者もあっただろうし、何世代か掛かって太平洋を一周し、日本列島にお里帰りした縄文人もいたかもしれない。その時、文化の断絶も継続にかわるのである。中期の遺物が掛けているとは言わないまでも目立たないのはなぜか。もう少ししっかりした見解を打ち出す必要があるのではないだろうか。


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