kitombo.com | 歴史作家のマ・ニ・フ・ェ・ス・ト | 2003年7月14日
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歴史作家のマ・ニ・フ・ェ・ス・ト
「閑話休題・山添村」

あきら@すずき
7月14日

○いわくら(磐座)学会設立の動き
 つい先日、7月4日(金曜日)夜、グループ黄トンボの例会が終わった後、新宿駅西口にある長距離バスステーションから夜行バスに乗り、奈良県山添村に向かった。
 金曜日夜ということもあり、バスは満席。逃げ場のない車中にぎゅうぎゅう詰めにされて、多少の息苦しさを感じながら席に付いたのは覚えているが、いつの間にか、寝入ったらしい。翌朝早く、乗務員に起こされて目を覚ました。大急ぎで身繕いを済ませると他の客は皆、寝ているらしく、誰も顔を上げている人はいない。急いで外に出た。
 まだまだ朝早く、午前5時過ぎ。村の人々は眠りのうちにあった。出迎えに来て下さっていた役場の人の用意したクルマに乗せていただいて宿舎へ向かった。頭は半分、眠っている。そこで、到着早々、シャワーを浴びて汗を流し、朝御飯を食べてひと眠りした後、会議に出ることにした。
 会議というのは『いわくら(磐座)学会設立準備会議』であり、午後1時から開催される予定。出席者は渡辺豊和さん(京都造形芸術大学教授)、平野貞夫さん(参議院議員)、柳原輝明さん(山添村開発コンサルタント)、そして、私の他、関西方面のアマチュア研究グループ数団体の代表者たちだ。
 私がイワクラ・サミットというアマチュア研究グループを主宰するようになって4年。曲がりなりにも年1回、地方自治体とのタイアップ企画で全国サミットを開催し、参加者が観光と勉強を兼ねて全国から集まり、受け入れ側の自治体では宣伝に努めるという関係で進められて来た。いわば、持ちつ持たれつの関係で来たはずだった。
 しかし、1昨年の秋、福島県飯野町で開催された第3回大会を転機にして「サミットの自立化」が提案され、自治体に依存しない形で運営される集団への飛躍が求められた。これは無理難題というものだった。参加者の誰一人として、そんな大それたことは考えていなかったのだから。私は1年間、悪戦苦闘してみたものの、自立化と言えるようなことは何一つ実現することはできなかった(写真1)。
 そこで出て来たのが「いわくら(磐座)学会設立への動き」だった。今年夏、東京で開催された「拡大幹事会」の場において、秋の大会に向けて処理すべき事柄を検討中、いきなり提案されたのだった。ある種のクーデターであった。いささか、腹立たしいことはあったが、半分はうれしかった。それこそ、私の望んできたことであったからだ。
 私は面食らったものの、十数年も昔から考古学界の現状を批判し、ピラミッド(古代山岳祭祀遺跡)と巨石文化を中心にして古代を見直すことを提唱してきただけに、できることならば、そうしたいし、しなければならないと長い間、ずっと思ってきたからだ。そういう意味では、本当のところ、私も「チャンス到来!」と思ったのである。

○直観的な「何かが足りない」感覚
 ところが、会議が進行するにつれて、何かが違うというか、違和感を感じる波長というか、すんなりと受け入れ難いものがあることに気付いた。イワクラ・サミットを全否定することで、まったく新しい団体(学術会議)を結成するという発想であり、イワクラ・サミットの成立から変移プロセスなどは眼中に置かれていないようだ。これでは一種のクーデターというか、革命じゃないのか、と。
 あまりにも生真面目すぎる。私は思った。もっと、もっと、他にやるべきことは山ほどある。やらなければいけないことがある。もっといわくら探査の楽しみ、喜びを味わってからやってもいいのではないか。それを省略して何が学会だろうか。そう思ったのだ。アマチュア研究家として楽しむことも知らず、調査研究団体に転換するというのはすっきりしなかった。
 ちょうど、岐阜県山岡町イワクラ文化研究会の長谷川俊明さんが会議に出ていたから、というわけではないが、思い出深い岐阜県山岡町でイワクラ研究会を立ち上げた時は、老若男女の集まりが毎週山に入り、やれりっぱな男根石だとか、それ愛らしい女陰石だとか、品評会をしながら楽しんだものだった。いつも笑いが絶えなかった。そして、それぞれ持参した弁当を開きながら、嫁と姑の話しをしたり、子供ができない嫁の悩みを聞いたりした。
 研究会のお年寄りが小学校や中学校の課外授業の特別講師となってガイド役を買って出たり、青年団や婦人会の勉強会の講師を努めたり、生涯学習運動を主宰するようになった。何にもない山奥の町が実は古代文化の宝庫であることを認識し、都市部の人々には体験できない文化体験を重ねる中で全国各地に視察旅行を重ねて一定の識見を開くようになった。
 そういう楽しみ方はイワクラサミット参加団体の性格に応じて皆、それぞれが異なる。そういう意味では、奈良県山添村のいわくら研究会にはいわくら研究会なりの楽しみ方があると思う。聞くところによれば、山添村いわくら研究会は、磐座がある一定の法則に従って配置されていることを知り、古代人の高度な科学と技術に驚き、感動しているところだという。
 いまは研究会の会員の皆さんだけの楽しみになっているようだが、これから多くの村民が体験することになるだろうし、これから参加する村民たちがいわくら研究会のレポートに耳を傾けるようになった時、本当の村起こしに火が付くことだろう。しかし、それには条件がある。女性の参加を増やすことだ。なぜか、女性と子供たちの参加者が少ないように見受けられる。
 なぜだろうか。たまたま私の目に留まらなかったというだけのことであれば何も問題はないのであるが、そうでないならば、是非とも女性と子供たちの参加をふやして欲しいと思う。それにはもう少し、楽しむ試みが必要なのではないだろうか。土地、土地の実情に応じて企画してほしいと思う。その意味では今回のシンセサイザー奏者藤井哲子さんによる『七夕コンサート』は極めて意義深いと思う。私も楽しませていただいた(写真2)。
 村の中心にある神野山の巨大な岩の川、なべくら渓は天の川の地上絵だったことが解明されたばかりであるが、天の川というのは何なのか。年に1回、その日だけは無礼講。老いも若きも男も女も山に集まり、山の神様、土地の神様の懐に抱かれて歌を歌い、楽器を奏で、普段は許されないことであるが、好きな人がいたら手に手を取って草むらに隠れて愛し合う、お祭りの日なのだ。

○磐座は骨がらだが、死んではいない
 要するに、磐座は何も事情を知らない人から見れば、単なる岩の塊である。岩の塊にすぎない。しかし、事情を知る人の目には宝物に見える。岩を中心とする自然の風景も文化の形を示すものとして視野に入ってくるからだ。光り輝いて見える(写真3,4)。
 その際、私は思うのだが、人間の遺跡(住居や墓、生産史跡)であれば、土の下に埋まっている物や状況は埋蔵文化財として認定される過去の遺物、要するに死体と同じものかもしれないが、磐座は死んでいない。神佛の御霊が入っている磐座であれば、未来永劫、ずっと生きているわけであり、人間が知らないだけのことなのだ。
 それを知らないで安易に手を出すと火傷をする。人間の都合本位で手を出したり、引っ込めたりしてはならない。そんな脅迫をしないでくれ、と言う人もいるかもしれないが、言うべきことは言わなければならないし、きちんとお祭りをしなければならない。面白半分や興味半分のお遊びならば、最初から手を出さない方がいいし、人間本位のご都合主義も自粛した方がいい。
 かと言って、磐座に宿った神佛の御霊は恐いだけのようであるが、そうではない。神佛の御霊はいつも人間と共にあることを欲していると思う。

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