○「与那国の調査を再開しましょう」

茂在先生と一緒に東京=熱海間を行ったり、来たりしている間に、もう一つの「海のプロジェクト」が持ち上がった。いや、持ち上がったと言うよりは、むしろ再燃したと言った方が適切な表現かもしれない。札幌に本拠を置く共和コンクリート工業という漁礁の開発研究を進める会社の副社長をお務めになる本間公也さんという方から「与那国島の海底調査を再開したいと思いますので参加して欲しい」と言って来たのだ。
海底調査と言っても琉球大学の木村政昭教授が取り組む海底遺跡のことではない。つまり、与那国島の南岸にある新川鼻の真下に沈む海底遺跡のことではない。この遺跡を石切り場とし、伐り出した岩を運んで組み上げた本当の神殿であったと予想される東崎堆のことである。東埼の沖合に沈む東崎堆は、与那国島有数の漁礁になっているだけではない。いろいろな意味で、極めて興味深い事実が見られるところなのだ。
○東崎堆=スモール与那国島の怪?
ソナーによる全体形状の把握をしただけでも、どういうわけか、与那国島と瓜二つ、そっくりそのままの形をしていることが判った。スモール与那国島と言ってもいい程の形を示していたのである。これには唖然とせざるを得なかった。いったい、どういう意味があるのだろうか。
与那国島が宇良部岳と久部良岳という二つの山を中心にして成り立っているのと同様に、東崎堆も東の峰と西の峰と二つの峰を中心にして成り立っており、細かいパーツはともかく、堆全体の形状がそっくりなのだ。これには驚いた。調査結果をまとめた「報告書」を前にして、私は「いったい、何故? どうして?」と頭を抱え込んでしまったのを記憶している。
いまだに結論は出ていない。そして、はっきりしたことは判らないが、本間さんと私は、東崎堆こそ、与那国島本来の海底遺跡であった、重要な鍵を握る海底遺跡であったという視点から過去数年間、調査し続けてきたし、見えないものを見ようとして追跡してきたのであった。
しかし、東崎堆は深い。山頂部でさえも水面下50メートルにあり、鍛え抜かれたプロダイバーでなければ到底、潜ることはできないし、潜ったとしても黒潮本流の真っ只中にあるために危険な状態に置かれることは必至という場所にあるため、誰彼なくやれるものではないのである。
熱海海底遺跡同様、ここも深い。そして、危険な場所なのだ。プロ中のプロ、それもダイバーとしての長い経験と鍛え抜かれた技術だけでなく、あらゆる意味でも試された力を要求されるプロジェクトにならざるを得ないということなのだ。私が東崎堆調査計画を『本間プロジェクト』と名付ける由縁である。志だけではできないものがある。
そういう力を総結集して解明する東崎堆調査計画こそ、海底遺跡調査の何たるやを世間に問う絶好のサンプルになるのではないだろうか。そんな予感がする。
○随分、回り道をしたが・・・
あまりに寄り道、回り道をしすぎたきらいがある。
一つの事業を軌道に乗せようとする時、簡単に進まない場合がある。最初から道が定まっていない時、先人、先達が踏み固めた道が定まっていない場合、自ら道を踏み固めながら後に続く者を誘導しつつ、天下の大道を開いて行かなければならない時、大変な苦労をしなければならない。それは何事によらず、共通することである。
しかし、われわれが目指す「イワクラ(磐座)研究」は、誰も先を行く指導者が存在せず、自ら失敗と回り道を重ね、無用な混乱と無駄、重複を承知の上でてがけなければならなかったし、自分がやっていることの意味と意義さえも判らず、闇夜に烏ではないが、手探りで、ぶつかり、ぶつかり、一歩一歩、進むべき道を探しながら歩んできたのであった。
しかし、ようやく道はできた。天下の大道が開かれた。この道に大小の道を繋ぎ、重ね、広場と結節点となる駅を作り、それぞれの部署で活躍する人々をつないで行くことになる。新しい時代が始まる。ようやくその時が来た。