ドクターいわくらの不・思・議・探・検
「「中外日報」との出会い」
あきら@すずき
9月15日
○奇妙な出会い
あれは8月18日(月曜日)のことだった。勢い良く電話の着信音が鳴った。受話器を取ると「中外日報」という宗教新聞の記者が「イワクラサミットのことで取材をさせて欲しい」とのことだった。記者は荻原哲郎と名乗った。私としては断る理由もないので承知した。二日後、品川のパシフイックホテルで会うことになった。
イワクラサミットとは正式には磐座と書くご神体石に関心を持つ人々の集まりで、毎年1回、全国規模で研究報告集会を開催することにしている。今年は11月22日(土曜日)から3日間、奈良県山添村で開催される。私は、その代表をつとめてきた関係上、取材対象となったものらしい。
20日(水曜日)夕方、私は予定通り、パシフイックホテルに向かった。そして、一通り、取材が終わったと思われるところで、恒例の逆取材に出た。私は取材を受けた時は必ず逆取材を試みる。せっかくの機会だから、私自身、相手から得るものがなければ簡単には帰さないのである。
イワクラサミットのどこに興味を抱いたのか。それをずばり言ってくれ、と押した。すると、荻原氏はぐいと身を寄せて一言、「実はイワクラサミットが山添村で開催されると聞いた時、私は体中に電気が走り、全身鳥肌になりました」と言ったのである。これには驚いた。私も全身に鳥肌が立った。
それは驚くべき偶然の一致であった。
○自然智宗の舞台=神山
荻原氏は「宗教史の地層を発掘する」ということで、歴史上の事件や事実の見直しを進めてきたのであるが、“東北の巨星”である徳一を見直して見ようということになった。
徳一と言っても、ほとんどの人にとっては馴染みのない人物かもしれないが、宗教史上では、平安佛教の巨人、空海と最澄との論争において敵役を演じた僧侶と言えば、思い出す人がいるかもしれない。徳一は南都奈良の古い佛教を代表する保守派の頭目とされているが、それでいいのか、と。
荻原氏は言う。徳一は自然智宗の実践者として知られるが、「古代仏教における山林修行者」として紹介されたため、自然智宗が「シゼンチ宗」と読まれ、理解されてしまった。しかし、これは「ジネンチ宗」と読むのが正しい、と。
自然智宗とは、『法華経』に従えば、次の通りである。
「自然智とは仏知のこと。だから無師智の一切智ということになる。無量衆生を愍念安楽ならしめ、救いを求めている大衆に利益を与え、一切衆生を往生させる大乗菩薩智である」
従って、出家というのも無師智として人知や学知を離れるための適合手段として山林修行が採用されたまでのこと。手段であって、目的ではない。徳一は、その意味で言うところの生粋の自然智宗徒であったという。
さて、その次が問題であった。その自然智宗の実践修行の場となる神山こそ、なんと、イワクラサミットの開催地である奈良県山添村の中心にある神野山だったのだ!
ある史料に「徳一は大和の神野山で専心修行し、その間、天告の霊感に接して東国の修行に出た」と記されているにも関わらず、従来の研究は全くの伝説としていた。しかし、神山は山添村の中心にある神野山であり、神野山寺も自然智宗山寺として実在していたことが確認されている。
私が関わるイワクラサミットは、山を聖地とする原始宗教の基本思想、設計思想に学び、神の御霊の坐す磐座を見直して行こうという研究団体であるが、奇しくもその考え方と徳一の思想がピタリと一致し、われわれの大会開催場所と徳一が追求した自然智宗の実践修行場がピタリと一致したというのはいったい、どういう偶然の賜物だろうか。
○東北に旅立った徳一の行き先
私は徳一という修行僧のことを荻原氏に聞くまではまったく知らなかった。そして、その一部始終を教えていただくことによって、とても知らぬ存ぜぬでは済まなくなった。
徳一は大和の神野山で専心修行に努めた後、東国へ修行の旅に出たという。そして、落ち着いた先が他ならぬ磐城国の湯岳の麓にある長谷寺であり、会津の磐梯山や古城ケ峰の麓にある慧日寺であったというのが気になって仕方がない。ここは山と岩のメッカであり、山岳仏教と磐座信仰の集中しているところであるということは繰り返すまでない。
徳一は、そこで汚されることなのない本来の仏道修行の形と内容を完成させようとしたのかもしれない。
大和においては元々、荻原氏によれば、「例えば法相宗元興寺の護命は月の上半は山寺で自然智を得るための修行を行ない、下半は本寺の元興寺にあって宗旨を研鑽した」という。これは南都諸宗に共通しており、官寺仏教と山林仏教が補完し合うシステムが出来上がっていたという。
とすれば、うるさい大和の地を離れ、磐城国においてまっさらな状態で再スタートしたいと念じたことは十分考えられるのではないだろうか。このいわき市の長谷寺も会津の慧日寺も私にとっては縁の深いところであるだけに尚更、思いは深く、徳一修行僧に対する思いは深まるのである。
いわき市の長谷寺にある「十一面観音像」には徳一建立という胎内銘が残されている。その事実から言えることは、徳一は湯岳を聖なる山と見立て、その山を意識して長谷寺を建立し、十一面観音像を安置したに違いないということである。
こうなると、私は徳一と呼ばれる修行僧に特別の親しみを覚え、他人のような気がしなくなってしまう。
平安の昔、あの偉大なる巨人、空海と最澄と真っ向からぶつかり合い、くんずほぐれず、からみあいながら山と岩を佛教の教えの核心に据えようとした男がいたということは、私自身、いきなり縄文の世まで溯るわけではなく、一旦、平安の世でひと休みした後、溯って行けるということだ。
しかも、その男が他ならぬ東北の地、磐城に立ち寄って足跡を記し、会津に骨を埋めたと聞けば、これはもう絶対に他人ではない。そう思い込む。大和国は奈良に行った時、私はいつも感じるところがあった。それは「何か、俺的な要素が奈良にある」という感覚だった。やっと、それが何なのか、正体が判ったという気がする。
俺的な要素というのは、縄文的な要素が古代的要素を結び目として現代に繋がるシステムが奈良にあるということだったのだ。間違いなく奈良には東北があるという直観だ。それが徳一という人物の登場によって、よりはっきりした形をとって表面化したということはとてもうれしい。
いわき、そして、会津に俺がいた。
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