kitombo.com | りんちゃん | 2007年9月10日 
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りんちゃん
「りんちゃんがいなくなった日」

網中 裕之
9月10日

 朝の6時半、枕元の目覚まし時計がピピッと鳴る。かわいいディズニーの時計だ。元気よく「おはよう」とりんちゃんは飛び起きる。部屋の中はシーンと静まり返っている。でもこれはいつものこと。小学校三年生のりんちゃんはお父さんと二人暮らし。名前は小林鈴子。小さい頃から「りんちゃん」と呼ばれてきた。
 お父さんの仕事は中華料理のコックさん。お店はとても忙しく、朝は6時に家を出て行き、帰ってくるのはりんちゃんが眠った頃だ。お父さんになかなか会えないのは寂しいけれど、夜中にお父さんの足音が聞こえると安心して眠れる。それに休みの日は一日中遊んでくれるから、りんちゃんはお父さんが大好きだ。朝起きてりんちゃんが最初にすることは、洗濯物を干すこと。夜にお父さんが洗濯をして、朝にはりんちゃんがベランダに干す。これが二人の決め事になっている。
 お父さんの大きなシャツを干すのは一苦労だ。夏の暑い日なんかは、それだけで汗が出てきてしまう。「あーあ、お父さん、またこんなに汚してる」。そんなふうにお母さんの口癖を真似しながら干す。お布団を畳んでから、朝ごはんの準備にとりかかる。と言っても、パンをトーストにして牛乳をコップに注ぐだけだ。おかずは昨日の晩ごはんの残り。
 晩ごはんはいつも近くのコンビニの弁当だ。全部食べてしまわないで、次の日の朝に少し残しておくのだ。そういうことが小学校三年になって、やっとできるようになった。
 学校へ行く準備も、もちろん一人で全部やる。一、二年生の頃はずいぶんと忘れ物をしたけど、今は先生から忘れ物ゼロの判子をもらえるようになった。なんでも自分でできるようになったりんちゃんは、ちょっぴり自慢気に学校に行く。りんちゃんは学校が大好きだ。学校に行けば友達もいる。少しだけ甘えられる保健の先生もいる。そして手作りのおいしい給食も食べられるからだ。学校にいる間だけは、りんちゃんは一人ぼっちじゃない。

*

 りんちゃんが小学校一年の夏、お母さんは家を出ていった。三つ下の妹の手を引いて、大きなボストンバッグを抱えていたのを覚えている。お父さんはまだ布団で眠っていた。りんちゃんは玄関で二人を見送った。
 「お母さん、どこへ行くの」
 「ちょっと、まいちゃんとお出かけしてくるからね」
 「りんちゃんも一緒に行く」
 「だって、りんちゃんは学校があるでしょ。大丈夫よ、すぐに帰ってくるから」
 いつもの買い物ではないことが、りんちゃんには何となくわかった。お母さんと妹のまいちゃんが、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。りんちゃんの目からは、涙がどんどん溢れてきた。お母さんはスカートからハンカチを取り出し、涙を拭ってくれた。そして自分の涙も拭い、ハンカチをりんちゃんの手にしっかりと握らせてくれた。そのとき以来、そのハンカチは一度も洗濯していない。寝るときにはいつも、りんちゃんはハンカチを握りしめている。かすかに残るお母さんの匂いを感じると、とても安らいだ気持ちになれるからだ。
 不安な気持ちで二人を見送ったあと、りんちゃんはずっとお父さんの枕元に座っていた。相変わらず涙が溢れてきた。長い長い時間が経って、ようやくお父さんが目を覚ました。
「お父さん。お母さんとまいちゃんが、どこかへ行っちゃったよ。大きなバッグを持っていたよ」。りんちゃんは一生懸命に訴えた。でもお父さんは「そうか」と一言つぶやいただけだった。
 その日の夕方、お父さんはりんちゃんをレストランに連れていってくれた。子どもたちの誕生日には、必ず四人で行くレストランだ。一年に二回、その日がとても楽しみだった。
大好きなハンバーグステーキを食べて、帰りには小さなオモチャを二人に買ってもらえる。どのオモチャを買ってもらうか。まいちゃんはすぐに決まるのに、りんちゃんはいつも迷ってしまう。それが頭に残る、お決まりの風景だった。
 このレストランに、お父さんと二人で来たのは始めてだ。もちろん誕生日でもないのに来るのも始めてだ。今日はきっと特別なのかもしれない。いつもの特別は楽しいのに、今日の特別はとても悲しい気がする。大好きなハンバーグステーキも、なぜかいつもより大きく見える。「どうだ。おいしいかい」と聞く、お父さんの声も変だ。「おいしいでしょ」と聞くのはお母さんの役目。いつものお父さんは黙ってビールを飲んでるだけなのに。そんな悲しい特別がいっぱいあった。
 帰りにオモチャを買ってくれると言うので、りんちゃんは「まいちゃんの分も買って」とねだった。小さなぬいぐるみが付いたキーホルダー。一つは犬で、もう一つには猫が付いいる。まいちゃんには犬のほうを上げようと思った。
 「お母さんとまいちゃん、もうおうちに帰っているかな。二人だけでレストランに行ったなんて言うと、きっと怒るだろうね。でも今日はお泊まりかもしれないね」
 りんちゃんがそう言うと、お父さんは何も言わずに、いきなりおんぶをしてくれた。お父さんの大きな背中にしがみついて、りんちゃんはまたいっぱい泣いた。

*

 りんちゃんが通う海岸小学校は、その名前の通り海のすぐ近くに立っている。家からは歩いても5分とかからない。教室の窓からはキラキラと輝く海が見える。海風を身体に浴びながら校庭を駆け回っていると、とても楽しい気分になれる。ずっと学校にいれたらいいのにな。いつもそんな風に思っている。
 ゆりちゃんとめぐみちゃんは大の仲良しだ。一年のときからずっと同じクラスで、家も近い。りんちゃんが学校へ行ってまずすることは、二人に「今日は遊べる?」と聞くこと。学校が終わってから一緒に遊べるかどうかを確かめるのだ。どちらかが「うん、遊べるよ」と言ってくれると、その日一日が楽しくなる。もし二人ともダメだったら、他に遊ぶ友達を探しておかなくてはならない。りんちゃんは家に帰っても一人ぼっちだ。それが寂しいから、誰かと一緒にいたいから、いつもみんなに声を掛けるようになった。
 でも本当は、みんなと遊んだ日のほうが寂しくなることを、りんちゃんはよく知っている。いくら楽しく遊んでいても、夕方5時のチャイムが鳴ればみんなは帰ってしまう。夏の日はまだまだ明るいのに、それでもみんなは帰ってしまう。「私んち、今日はカレーなんだよ」「ええー、いいなー」。そんな友達の会話を聞きながら、りんちゃんは笑顔で「じゃあ、また明日ネ」と元気よく手を振る。
 ある日の夕方、ゆりちゃんとめぐみちゃんと一緒に校庭で遊んでいた。4時をちょっと過ぎたときに、急に雨が降りだした。三人は走って体育館のひさしに非難した。空を見上げながら、りんちゃんは朝に干した洗濯物のことを思い出した。「私、洗濯物を取り込んでくるから、ちょっと待ってて。すぐに帰っくるから、ここにいてね」。二人にそう言い残して、雨の中を走って家に帰った。急いで洗濯物を取り込み、また走って学校に戻った。
 でもそこには、ゆりちゃんとめぐみちゃんの姿はなかった。学校のまわりをグルリと回ってみたけれど、やっぱり二人の姿は見つからなかった。「二人とも雨が降ってきたから帰っちゃったのかな。まだ5時までいっぱい遊べるのにな」。もしかしたら戻ってくるかもしれない。そう思いなおして、体育館の前に座った。びしょぬれの髪の毛から、水滴がポタポタと顔におちてきた。
 「あら、りんちゃん。どうしたの? びしょぬれじゃない」。顔を上げると、大好きな保健の先生が立っている。先生はスカートのポケットからハンカチを取り出し、濡れた髪の毛と顔をやさしく拭ってくれた。忘れられない記憶がふと蘇った。りんちゃんは先生のスカートにしがみついて泣いた。後から後から涙が溢れてきた。先生は何も言わないで、ずっと頭を撫で続けてくれた。りんちゃんが学校で涙を見せたのは、このときが始めてだった。

*

 夏休みまであと一週間という日、お父さんがケガをした。夕方、いつものように洗濯物を片づけていると、突然お父さんが帰ってきた。こんなに早く帰ってきたことは一度もない。「ただいま」という声にびっくりして玄関まで駈けていくと、左手を包帯でぐるぐる巻きにしたお父さんが立っていた。「どうしたの。お父さん!」と、りんちゃんは思わず大きな声を出した。
 お店でお父さんが調理をしていたとき、急に火が強く燃え上がり、左手の袖に燃え移ってしまった。すぐに周りの人が服を脱がしてくれたけど、左手に大火傷を負ってしまった。救急車で病院に運ばれ、応急処置をしてもらった。お医者さんは何日か入院しなさいと言ったけれど、お父さんは頑としてそれを拒んだ。夜中までもりんちゃんを一人ぼっちにさせるのは、あまりにもかわいそうだと思ったからだ。全身がしびれるような痛さに耐えながら、お父さんは電車に乗って家まで帰ってきた。
 りんちゃんが布団を敷いてあげると、お父さんはすぐに横になり、そのまま眠ってしまった。お父さんは全身汗だくで、おでこに手を当てると燃えるように熱かった。りんちゃんは洗面器に氷水をつくり、タオルを絞ってお父さんのおでこに当てた。絞る力が弱いので、タオルから雫が耳のほうへと流れてしまう。それをまた乾いたタオルでそっと拭った。「お父さん」と呼びかけても全く返事をしない。ただ荒い息をしながらひたすら眠っている。りんちゃんは心配で心配で、ご飯を食べることも忘れていた。何度溶けた氷を取り替えたことだろう。その夜りんちゃんはパジャマに着替えることもせず、お父さんの枕元で身体を丸めて眠った。
 次の日の朝、少し寒くなってりんちゃんは目を覚ました。時計を見るともう7時を過ぎていた。お父さんはまだ眠っているけど、だいぶ息が静かになっていた。とりあえず何かを食べさせてあげなければいけない。りんちゃんは財布を握りしめて、いつものコンビニへと走った。食べやすそうなお弁当と牛乳、そしてお父さんの好きなイチゴを買った。
 コンビニの袋を持ったまま、りんちゃんは学校へと走った。今日は学校を休んで看病をしなくちゃいけない。それを先生に伝えようと思ったからだ。担任の先生がまだ来てなかったので、5年生の先生に伝えておいた。「困ったことがあったら、すぐに学校に言いにくるんだぞ」。大きな身体の男の先生がそう言ってくれた。「はい」と返事をし、また家に向かって駈けだした。学校を休むのは寂しい。お父さんのケガも心配だ。でも、家に帰るとお父さんがいる。りんちゃんはちょっぴり嬉しくなっていた。
 その日一日、りんちゃんはずっとお父さんのそばにいた。昼過ぎに熱は下がったものの、火傷の手はとっても痛そうだった。分厚い包帯の上にそっと手を置いて、はやく治りますようにとお祈りをしていた。その甲斐があってか、夕方になると少し元気を取り戻した。「りんちゃん。おかゆをつくってくれないか」と、お父さんは言った。家族の誰かが病気になると、必ずお母さんがつくってくれたおかゆ。一口食べると、不思議と元気が出てきたのを覚えている。でも、もちろんりんちゃんは自分でつくったことなどない。
 「お父さんが言ったとうりにやってごらん。さあ、まずはお鍋でお湯を沸かして」
 うまくできるかどうか心配だったけど、りんちゃんはお父さんに言われたとうりにやってみた。一つの作業が終われば「終わったよ。次は何をするの?」と聞く。お塩や醤油の分量もお父さんの言われるとうりにつくった。そうして出来上がったおかゆの味をみて、りんちゃんはびっくりした。おかあさんのつくるおかゆと、まったく同じ味だったのだ。
 「お父さん。すごいよ。お母さんのおかゆと同じ味がするよ」
 「そりゃあそうだよ。だって、お母さんにおかゆの味付けを教えたのは、お父さんなんだから」
 おいしそうにおかゆを食べながら、お父さんが静かに言った。
 「りんちゃん。お母さんやまいちゃんと一緒に暮らしたいか」
 その聞き方がなぜか寂しそうだったので、
 「うん。でも、りんちゃんにはお父さんが一緒にいるから、いいよ」
 と答えた。お父さんは何も言わずに、おかゆを食べつづけていた。
 それから一週間、りんちゃんはお父さんの看病をして過ごした。終業式の日には、担任の先生が通知表をもって訪ねてきてくれた。少しだけお父さんと玄関で立ち話をして帰っていった。「また二学期には元気な顔を見せてね」という先生の言葉に、はやく夏休みが終わってくれればいいのにと思った。
 夏休みが始まって三日目、お父さんは朝早くに出掛けていった。たぶんお店だと思うけど、それはりんちゃんには分からない。そして夕方には家に帰ってきた。まだ手が痛くてお仕事ができないのだろう。お父さんが早く帰ってくるのは嬉しいけど、お仕事ができないのはかわいそうだ。早くけがが治るように、りんちゃんは一生懸命に夕御飯をつくった。お父さんに教えてもらったおかゆを毎日つくった。おかずは商店街でコロッケを買ってくる。たったこれだけの夕飯だけど、りんちゃんにとってはたいへんな作業だった。
 そんな日が一週間ほど続いたある晩。お父さんが急にこう言った。
 「りんちゃん。明日からしばらく旅行に行くよ。りんちゃんが大切にしてるものを全部持って行きなさい。大好きなぬいぐるみとか、ともだちからもらった宝物とか、みんな持って行っていいからね」
 「どこへ行くの? どうしてみんな持っていかなくちゃいけないの?」
 りんちゃんがそう聞いても、お父さんはただニコニコ笑っているだけだった。
 次の日の夕方、お父さんは車にいっぱい荷物を積み込んでいた。ダンボール箱が四つもあった。いったい何を持っていくんだろう。でもりんちゃんは、箱の中身のことを聞くことができなかった。車がゆっくりと発車した。二人とも口を開こうとしなかった。ただ、車が学校の近くを通ったとき、お父さんは車のスピードを緩めた。三年一組の教室がハッキリと見えた。もちろん夏休みで誰もいない。でも教室の窓からみんなが手を振っている。そんな気がふとした。「もうみんなに会えないのかな」。りんちゃんはぼんやりと学校を眺めていた。

*

 二学期が始まった。三年一組の教室にりんちゃんの姿はなかった。一週間が経っても、りんちゃんは学校に来なかった。「誰かりんちゃんのことを知らない?」と先生がみんなに聞いた。家に訪ねて行っても返事がないのだという。転校の手続きも出されていない。とにかくクラスのみんなは心配した。特に仲良しだったゆりちゃんとめぐみちゃんは、三回もりんちゃんの家を訪ねた。チャイムを押しても、家の中は静まり返っている。「りんちゃん、いなくなっちゃったね」。二人は、黙って帰ってしまったあの夏の日を思い出していた。
 アパートの裏へ回って、りんちゃんの部屋のベランダを見上げた。そこには取り込み忘れたのか、ハンカチが一枚、風になびいていた。

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