kitombo.com | りんちゃん | 2007年9月17日 
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りんちゃん
「りんちゃんの夏休み」

網中 裕之
9月17日

 車に乗ってから、どれくらいの時間が経つのだろう。陽はすっかり傾き、車の窓から見える景色が変わっていた。
 荷物をいっぱい積んで、海の近くのアパートを出発してから、りんちゃんとお父さんが乗った車はしばらく高速道路を走った。高速道路をドライブするなんて何年ぶりだろう。まるで飛んでいるような車の速さに、目が回りそうだった。正午を少し過ぎたころに、高速道路の中にあるレストランに入った。こんな所にレストランがあるんだと、りんちゃんはとても不思議な気分になった。お父さんはトンカツ、りんちゃんはカレーライスを食べた。カレーライスを食べ終えると、お父さんはチョコレートパフェを注文してくれた。何だか、とってもぜいたくな気がした。
 お昼を食べてから少し走ると、やがて車は高速道路を降りた。くねくねと曲がった道を山のほうに向かって走った。その揺れがとても気持ち良く、りんちゃんはうつらうつらと眠ってしまった。目を覚ますと、車の外はすっかり山に囲まれていた。
 「目が覚めたのかい」
 お父さんは相変わらずハンドルを握りしめていた。
 「うん。気持ち良かった」
 「もうそろそろ着くから、起きてたほうがいいぞ」
 「もうすぐ、お母さんとまいちゃんに会えるんだね。待っててくれているかな」
 お父さんはニッコリと微笑んだ。
 それから小一時間も走っただろうか。車はどんどん山奥に入っていった。土と石ころの道路はだんだんと細くなり、辺りも薄暗くなってきた。りんちゃんは何だか心細くなった。
 「お父さん。ほんとうにこの道でいいの?こんなところにお家があるの?」
 「うん。実はお父さんもおじいちゃんの家に行くのは今日で二度目なんだ。一度目の時は迎えにきてもらったから、自分で行くのは初めてなんだよ。でも大丈夫」
 向かっているところは、お母さんの実家。つまりはりんちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんの家だ。一度目というのはまいちゃんが生まれた時だ。そのころりんちゃんはまだ四歳にもなっていない。話には聞いたことがあるけど、実際には覚えていない。電話や手紙のやり取りはするけれど、おじいちゃんやおばあちゃんの顔はよく知らないのだ。とても不便なところなので、なかなか行けないのだとお父さんは言っていた。
 もうすぐで陽が暮れてしまうという時に、急に目の前の視界が開けた。そして突然、一軒の大きな家が現れた、それはまるで、りんちゃんの大好きなアニメ「となりのトトロ」に出てくるような家だった。庭にそびえる大きな木もそっくりだった。
 「すごいよ、お父さん。トトロのお家にそっくりだよ」
 思わずりんちゃんはそう叫んだ。その大きな声が聞こえたのか、車の音が聞こえたのか。庭の向こうの玄関の扉が開いた。誰かが手を振った。夕陽の影になって顔はよく見えないけれど、それがお母さんであることはすぐに分かった。その横にいた小さい女の子がこちらに向かって走り出した。それはまるでスローモーションの映画を見ているようだった。
 「りんちゃーん」
 「おねえちゃーん」
 その声に、りんちゃんはなぜか返事ができなかった。お父さんのハンドルを持つ手を、しっかりと握りしめていた。たった十メートルほどの距離が、とても長く感じられた。
 車が止まると、お父さんがドアを開けてくれた。りんちゃんが車から降りると、待ちかねていたかのようにお母さんが抱きしめてくれた。毎晩抱きしめて寝る、あのハンカチと同じ匂いがした。「お母さん」と、りんちゃんは遠慮がちにつぶやいた。お母さんの胸から顔をあげると、おじいちゃんとおばあちゃんがニコニコした顔で見ていた。
 「りんちゃん、よく来たなあ。大きくなったなあ。ゆっくりと遊んでいけばいい。ずっとここにいればいいからな」
 小さなおばあちゃんは、顔をしわくちゃにしながらそう言った。「ずっとここにいればいい」という意味が分からなかった。夏休みの間中ここにいるのかな。そうなったら、毎年小学校で開かれる夏祭りに行けなくなる。りんちゃんはそれまでには帰りたいと心の中で思っていた。そのことを訴えようとお父さんのほうを振り返った。お父さんはたくさんの荷物を家の中に運んでいるところだった。
 「さあ、お家の中にお入り」
 「おねえちゃん、はやく、はやく」
 おばあちゃんとまいちゃんにせかされながら、りんちゃんは家の中に入った。玄関の扉を開けると、広々とした畳の部屋が広がっていた。たったひと部屋だけで、りんちゃんのアパートの部屋が全部入りそうだ。部屋の真ん中には大きな囲炉裏があった。どうしてそれが囲炉裏だと分かったかと言えば、学校の生活科の勉強で習ったばかりだからだ。りんちゃんは囲炉裏のところへ行き、鉄の棒で中の灰をかきまわしてみた。
 「すごいでしょ、おねえちゃん。寒いときになるとね、ここでおなべを食べるんだよ」
 まいちゃんが自慢げに、そしてとてもしっかりした口調でそう言った。りんちゃんが覚えている甘えん坊のまいちゃんではなく、まるで別の女の子のような感じがした。たった二年会ってないだけなのに、どうしてこんなにも違うのだろう。もしかして私も、お母さんやまいちゃんから見れば変わっているんだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。
 部屋の中からは庭がよく見えた。もうすっかり陽は落ちていた。部屋の明かりが庭の様子をうっすらと映している。車の横でお父さんとお母さんが立ち話をしていた。家の中に入って話せばいいのに。りんちゃんは二人を呼びに外へ出ようとした。そのとき、お父さんが車の中に乗り込むのが見えた。エンジンをかけ、お父さんは運転席の窓を開けた。
 「おとうさん!」
 りんちゃんは驚いて車のほうに駆けていった。
 「おとうさん! どこへ行くの? どうして一緒に泊まらないの?」
 お父さんは車の窓から腕を伸ばし、りんちゃんのほっぺに手を当てた。
 「お父さんはね、あした仕事があるんだ。仕事がお休みになったら、また来るからね。元気で待ってるんだぞ」
 お父さんは嘘をついていると思った。
 「いや! お父さんが帰るんだったら、私も帰る。だって、りんちゃんがいなかったらお洗濯は誰がするの。病気になったら、誰がおでこを冷やすの。お父さん一人じゃできないでしょ」
 りんちゃんは車のドアを開けようとした。その腕をお母さんの手がしっかりと握った。とても強い力だった。車がゆっくりと走り出した。赤いランプが見えなくなるまで、りんちゃんは立ち尽くしていた。
 「お父さん、また高速道路を走るのかな。ちゃんとご飯を食べるかな。ねえ、お母さん。お父さん、また迎えにきてくれるよね」
 お母さんは返事をすることなく、りんちゃんを強く抱きしめた。
 「さあ、お風呂に入って、ご飯を食べよ。今日はりんちゃんの大好きなハンバーグを作ってあるんだから」
 まわりの山々が、とても暗く感じた。

 夕食はとても賑やかだった。畳の部屋に大きなテーブルが出され、それを取り囲むように五人が座った。テーブルの上には大好きなハンバーグの他に、たくさんの料理が並んでいた。それはまるでレストランのようだった。今まではコンビニで買ったお弁当をひとりで食べていた。お父さんが休みの日には、二人で食卓を囲んだ。そんな習慣が身についているせいか、大人数で食べる夕食にりんちゃんは少し戸惑いを覚えた。
 「りんちゃんはいつも何を食べていたの?」
 と、お母さんが聞く。
 「ともだちはいっぱいできたかい?」
 と、おばあちゃんが聞く。
 「りんちゃんは勉強が好きか?」
 と、おじいちゃんが聞く。
 「おねえちゃん、あした何して遊ぶ?」
 と、まいちゃんが話に割り込んでくる。
 次から次へといろんなことを聞かれる。りんちゃんは何だか疲れてしまった。せっかくのハンバーグなのに、おいしいのかどうかも分からなかった。それでもみんなの質問に、一生懸命返事をした。ニコニコと笑いながらハキハキと答えた。
 慌ただしい夕食が終わり、お母さんとまいちゃんと三人でお風呂に入った。ひさしぶりに見るお母さんの身体。なんだか不思議な気持ちがして、まじまじと見つめてしまった。
 「何をそんなに見ているの? いつもお風呂は一人ではいるの?」
 湯船につかりながらお母さんが聞いた。
 「うん。でもおとうさんがお休みの日は一緒に入るよ。お父さんが髪の毛を洗ってくれるの。お父さんったらね、髪の毛を荒いながら必ずくすぐるんだよ」
 お父さんの話を始めると、りんちゃんは急に元気が出てきた。それからずっと、りんちゃんはお父さんの話をした。洗濯の係を決めていること、休みの日に公園に行くこと、そこでときどきアイスクリームを買ってもらうこと。いっきにいろんな話をした。お母さんは「そう。そうなの」と相槌を打ちながら、静かに聞いていた。
 おじいちゃんの家は大きな平屋建てだ。みんなで食事を食べた広い座敷のとなりには、これもまた広い炊事場がある。冷蔵庫に入り切らない野菜が、山盛りに置かれている。部屋はそのほかに二つ。一つはおじいちゃんとおばあちゃんの部屋。もう一つがりんちゃんたちが寝る部屋だ。部屋の真ん中に布団が三つ、寄り添うように敷かれていた。
 「きょうは疲れたでしょ。ゆっくりと寝なさいね」
 お母さんが背中をトントンしてくれた。それがとっても気持ち良くて、りんちゃんはすぐにうとうとしてきた。「お父さん、ちゃんとご飯を食べたかな」。そんなことを考えながら、すっかりと眠ってしまった。

 翌朝りんちゃんは、いつもより早く目を覚ました。コケコッコーと鳴くニワトリの声に起こされたのだ。そういえば庭の片隅にニワトリ小屋があったのを思い出した。となりを見ると、お母さんの姿はもうなかった。まだ眠っているまいちゃんを起こさないように、そっと部屋を出た。炊事場を覗いてみると、お母さんが朝御飯の支度をしていた。炊きたてのご飯とおみそ汁の匂い。りんちゃんはとても幸せな気分になった。
 「おはよう、おかあさん」
 「あら、おはよう。ずいぶんと早起きなのね。いつもこんなに早く起きるの?」
 「ううん。ニワトリさんに起こされちゃったの」
 「そう。さあ、お顔を洗ってらっしゃい」
 はい、と元気良く返事をして洗面所に行った。真新しいコップとハブラシはおばあちゃんが買ってくれたものだ。水道から流れる水は驚くほど冷たかった。一口飲んでみると、ほんのりと甘い味がした。顔を洗うと、りんちゃんは庭に出てみた。夏だというのに、空気がひんやりとしていた。草木が風にゆれてザワザワと音をたてている。そこにはザザーッという波の音は聞こえない。まるで別の世界に来たみたいだ。「別の世界」。そう口に出してみると、寂しさがこみあげてきた。お父さんのことや、仲良しのともだちのことが思い出された。学校の校庭が目に浮かんだ。はやくお家に帰りたい。そう思うと涙が出そうになった。そのとき「りんちゃん。ご飯ができたわよ」というお母さんの声が聞こえた。
 おじいちゃんの家は山に囲まれている。家の裏には畑があり、いろんな野菜が育っていた。朝御飯が終わると、おじいちゃんとおばあちゃんは畑仕事にでかける。その後をついて行くのがまいちゃんの日課らしい。
 「はやく。おねえちゃんも一緒に行こうよ」
 まいちゃんに手をひかれて、りんちゃんは裏山に登っていった。真っ赤なトマトがたくさんなっていた。おばあちゃんがそれを一つもいで、りんちゃんに手渡した。畑のそばの湧き水で荒い、トマトをほうばった。それはいままでに食べたことのないトマトだった。
 「これ、ほんとうにトマトなの?」
 「これがほんとうのトマトだよ。どうだ、おいしいだろう」
 おじいちゃんが自慢げに言った。
 トマトをほうばりながら目の前の木を見ると、大きなかぶと虫が一匹、太い幹にへばりついていた。りんちゃんは驚いて目をまるくした。立派な角をはやしたオスのかぶと虫だ。それはデパートで売られていたかぶと虫よりもずっと大きかった。
 「すっごい。こんな大きいのは初めて」
 「そんなのは、いっぱいいるよ。ほら、もっと上のほうを見て」
 まいちゃんが指さす木の上を見ると、何匹ものかぶと虫が群がっている。あまりの数の多さに、気分が悪くなるほどだった。かぶと虫の他にも、見たことのないような虫がたくさんいた。その不思議な光景を見ていると、ここにはほんとうにトトロがいるのかもしれないと思えてきた。
 それから毎日、りんちゃんは網で虫を取るのに夢中になった。田舎の虫はのんびりしているのか、虫たちはいとも簡単に捕まってくれる。大きめの虫かごもあっと言う間にいっぱいになる。虫かごがいっぱいになると、取った虫をいっせいに逃がす。そしてまた、新らしい虫を捕まえる。一日に何回もそんなことを繰り返した。朝のほうが捕まえやすい虫、昼になると鳴きだす虫、夕方に動きだす虫。いろんな虫たちがいることが分かってきた。
 りんちゃんは虫日記を付けはじめた。毎日捕まえた虫をスケッチし、感想を書き込む。夏休みの自由研究はこれでバッチリだ。夏休みの宿題に昆虫の観察をする子は多い。でも、こんなにたくさんの虫を取ることはできないだろう。きっと先生もともだちもびっくりするに違いない。りんちゃんはそれを考えると、何だかワクワクしてきた。まいちゃんもずい分と協力してくれた。りんちゃんが掴めない虫でも、まいちゃんは起用に捕まえる。二人で野山を駆け回り、のどが乾けば冷たい井戸の水を飲む。お昼ごはんを食べたら少し昼寝をして、また外へと飛び出していく。コンビニご飯を買いに行かなくてもいい。洗濯物の心配もしなくていい。思う存分りんちゃんは遊ぶことができた。そうして、あっと言う間に時間が過ぎていった。

 気がつけば、八月も下旬になろうとしていた。もうすぐに夏休みも終わり、二学期が始まってしまう。自由研究はバッチリだけど、算数と漢字のプリントにはまだ手をつけていない。持ってきた荷物の中を探してみたけど、そこには入ってなかった。どうやらお家に置いてきたらしい。早く帰ってやらなければ、夏休み中に終わりそうにない。
 「ねえ、お母さん。宿題のプリントを置いてきてしまったの。もうそろそろ帰らなくちゃ。お父さんに迎えにきてもらおうよ。お母さんもまいちゃんも一緒に帰ろうよ」
 りんちゃんは思い切って言ってみた。
 「あのね、りんちゃん。もうあそこのアパートには帰れないの」
 「どうして?」
 「あのアパートはもうすぐ引き払うの」
 「じゃあ、お父さんがこっちに来るの?」
 「それはまだ分からないわ」
 お母さんの言っている意味がよく分からなかった。アパートもなくなる。お父さんはいったいどこで暮らすんだろう。ずっとここにいることになるんだろうか。学校はどうするんだろう。どこかに転校するのかな。もう海岸小学校には戻れないのかな。頭の中でいろんなことがグルグルと回った。
 そうしているうちに、とうとう九月になってしまった。二学期が始まってしまった。「お父さんは、いつ迎えにくるの?」「いつになったら学校に行けるの?」。毎日のようにしつこくお母さんに聞いた。そのたびに「もうちょっと待ってね」と答えるばかり。りんちゃんにはもう聞く元気もなかった。
 山の秋は早い。まだ九月だというのに、夕方の風が涼しく感じられる。ぼんやりと庭に座っている日が多くなった。保健の先生は元気かな。友だちも心配してるだろうな。これからどうなってしまうのかな。どうして四人で暮らすことができないんだろう。いくら考えても、その答えは見つからなかった。
 「海が、見たいな」
 りんちゃんは、小さな声でつぶやいた。

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