
多くの人々は何かしらの野望を抱いて旅行をする。きれいな海で泳いで身も心もリフレッシュしたい、たくさん買い物したい、などさまざまな野望が旅を推し進めていく。もちろん目的と言い換えても差し支えない。だが、今回の旅は私にとってまさに野望という言葉がふさわしいのだ。そして、その野望とは「豊かさとは何か」をdiscoverすることであった。
4年連続で続いているGYU(Global Youth United)の支援によるミャンマー友好の旅の今回の参加者は私(舘佳文)と相本真菜の2名である。去年の参加者である双子の弟、舘佳吾の勧めによって参加することとなった。そして、実は彼の「大地の豊かさと美しさに心打たれた」という彼の言葉で、今回の私の旅のテーマが決まったのだった。
様々な期待を胸に出発した私たちであったが、ビザの取得漏れという事態にバンコクで3日間足止めされ、バンコクのミャンマー大使館での孤独な戦い(目の前が窓口なのに丸一日順番待ちしていても窓口にたどり着けないというような実に根競べとしか言いようがない厳しい戦いであった)からようやく開放された2月17日、やっとの思いでバンコクから出発することができた。
第1日目

夜8時、我々はようやくヤンゴン国際空港に到着した。まるで19世紀の旅客船を思わせる(もちろんそんなものがあったならの話だが)薄暗い、何か頼りない空港で力強く我々を迎えてくれたのはガイドのチョーカインさん、ホストのダゥキンキンラさん、そして今回の旅行のスケジュールをすべて組んでくれたサンネイ・トラベルの西垣さんであった。時間が時間なだけに、西脇さんから早々に旅の日程の説明(タイでの足止めによって当初予定していたスケジュールがすっかり変わってしまっていた)を受け、西脇さんと別れた我々はホストであるダゥキンキンラさんのお宅に、待たせていた車で向かうこととなった。
道は真っ暗である。弱々しい明かりで何とか道を照らしてくれている街灯以外に明かりは途中すれ違うハイビームにしたままの車くらいなものだ。どちらもたまにひょっこり現れて道を照らしてくれるのだが、車は10分で3、4回くらいしかすれ違わないし、街頭の数も100メートルに1つ程度(何せ道は真っ暗なので距離感覚は定かでないが、おそらくこのくらいだろう)なので、気がついたらいつの間にか、道のど真ん中を走っていたりする。道もひどくデコボコしていてたまに車体が飛び上がる。ちょうどビック・サンダー・マウンテンにでも乗ったような感じだ。途中、町らしき場所を通ったが、そこには喫茶店のような建物がいくつかあり、明かりがついている。しかし、それも夜10時を過ぎると消えてしまうようである。
町並みは暗くてはっきり見えないのだが、どうやら空港から町を通ってミャンマーの高級住宅街へと移動したらしい。ガイドのチョーカインさんはしきりに、「目的地の辺はみんなお金持ちの家ばかりです」と言っていたが、確かに通る家々は確かに今までと違って塀と門があったり家の作りもしっかりしていた。それまですれ違ってきた家は、日本のような台風が来たら、3匹の子豚ではないが、たちまち簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。
ダゥキンキンラさんの家に到着した我々は居間に通され(家のつくりは居間、ダイニングキッチン、寝室、客室、さらに2階もあって比較的洋風なつくりであるが、寝室が土間ようになっていたりする)、若いころ日本に少し滞在していたというダゥキンキンラさんとガイドのチョーカインさんの二人と日本語で少しお話しをしてから、すぐ近くのダゥキンキンラさんのご兄弟の家にご挨拶しに行くことになった。
そのお宅の主は70歳近いおじいちゃんで自転車の修理工場を営んでいた。娘夫婦と2世代で住んでいる。家に入ると床はなく靴のまま中へ進む。入るとすぐが居間になっていておじいさんとおばあさんが満面の笑みで迎えてくれた。その周りにはおじいさんの娘とその子供たちのまた、ちょっとはにかみながら同じような満面の笑みで迎えてくれた。そこには外国人に対しての警戒心などかけらも感じられない。我々もちょっと照れくささを感じながら「ミンガラーパー(こんにちは)」と言った。その瞬間、部屋は和やかな笑いに包まれるのがわかった。本当に久しぶりの家族の再会のような、穏やかで心休まる歓迎であった。
1時間は居ただろうか。日本語は通じないが、片言のミャンマー語を我々が一言発するたびにうれしそうに大きくうなずいたり、笑ったり、本当に笑いの絶えない楽しいひと時であった。帰りがけにおばあさんが「明日朝早いんでしょ?これを持って行きなさい。」と言って、ミャンマーのおつまみのパックを持たしてくれた。茶葉の漬物に10何種類ものさまざまなナッツを混ぜて食べるお菓子。そのさまざまなナッツはこれから出会うことになるさまざまなすばらしい出会いであり、茶葉はその出会いに助けられかけがえのない貴重な体験をしていくことになる我々である。自分の本当の孫のように送り出してくれた。
第2日目

翌日目覚めると、自分の真横に子供の握りこぶしくらいの蛙がたたずんでいた。その蛙は私が起きたのを合図に部屋の隅のほうに跳ねていった。やれやれなんというところからこの蛙は登場するんだろう、と思いつつも不思議と驚かない。当然蛙くらいこの部屋にいてもおかしくない、というような雰囲気が、密閉されているはずの部屋での蛙の出現というおかしな現象への懐疑心をも上回っているのである。まるで家猫でも見るように蛙が視界の外へいなくなるのを見送り、起きることにした。
何せ朝が早い。この日は朝4時起床して朝市を見に行くため、5時に出発する予定だった。タイとは30分しか時差はないので時差ぼけはないが、なかなか寝られないのでまったく疲れは取れていない。寝ぼけ眼で身支度をし、結局5時半ごろ出発となった。外はまだ暗く、肌寒いがとにかく車に乗って朝市に出発したわれわれは、その後必要になるわれわれのパスポートのコピーを町の何十枚も取り(賄賂をとともに諸役所の人々に渡すのだそうだ)、夜が明けたころ目的地に到着した。
朝市は見慣れない果物、食品にあふれていた。瓜科の果物や大きな葱、中にはミャンマー式の醤油なども売っている。このあたりの朝市はいかにもわれわれが想像するような朝市で、狭い路地の両脇にテーブルをこしらえて食材を並べて、タナカ(ミャンマー式の日焼け止め)を顔に塗った女性たちが店番をしている。辺り一帯が朝市で、屋根つきの場所では民芸品なども売っていた。こちらは観光客をターゲットにしたものも多く販売していて、ちょっと目が合うたびに、「オニイサン、カッコイイ。オニイサン、カッコイイ。」といって売り子が寄ってくる。チョーカインさんは、あまり物珍しそうにしちゃダメです、お店の人しつこいです、と言っていたが確かに日本のカラオケやキャバクラの客引きなんかより遥かにしつこい。ずるずる後ろについてきてなかなか立ち止まらせてくれない。ちなみに、どういうわけか民芸品コーナーには男の子の客引きが多かった。
そのようなあわただしい朝市見学を終えて早々に首都ヤンゴンを後にした。次に向かったのは、バガンである。このバガンは日本でいう京都のようなところで、ミャンマーの仏教の聖地である。パゴダ(仏像が奉られている祠のようなもの)や寺院が数千も林立し、そのほとんどは11世紀から13世紀にかけて建てられたものであるというから、まさに遺跡の宝庫である。
バガンへはヤンゴンから空路で行く。到着したバガンの空港は荒野のど真ん中にあった。ミャンマー有数の観光地なだけに、その周囲10数キロにはしっかり舗装された太い道路が存在するが、それ以降は粗末なコンクリートか、ただ単に土が平らにならされたというような道しかない。通る度に大量の土ぼこりを撒き散らすことになる。
空港を出た我々はまず空港から20分弱ほど離れた、今回宿泊するホテルに向かった。そのホテルは小奇麗な数十棟のコテージがプールを囲むように建てられていて、それぞれのコテージにはすべて温水が出るバスがあり、便器も洋風の水洗便器、衛星テレビも完備されているという、バガンのその一帯における最高級ホテルであった。しかし、その宿泊費は朝食が付いて、日本円にして一人2000円程度である。まさに驚くべき物価の差が日本とミャンマーとの間に存在する。
ホテルで一休みし、暑さがピークを過ぎた午後3時ごろ、我々はパゴダ・寺院めぐりに出かけることにした。夕方までに12ものパゴダ・寺院を回ったのだが、どのパゴダも1つとして同じ姿のものはなく、また一つ一つにそれぞれの歴史がはっきりと刻み込まれていた。幽霊寺院といわれるダマヤンジー寺院、囚われの王が建てたマヌーハ寺院、5層ものテラスを持った夕日の絶景が見られるシュエサンドーパゴダなど、本当に様々である。
我々が最も気に入ったのは、ヤハウンジー寺院というあまり観光客が来ない、ちょっと寂れた寺院である。我々はその寺院で30分ほど時間を潰すために寄ったのだった。夕日の絶景が見えるシュエサンド−パゴダで夕日を見るために、日が沈みかけるまで時間を潰したのである。しかし、寺院のてっぺんまで登り見渡した光景は本当にすばらしいかった。エヤワージー川が遠くで雄大に流れ、数え切れないほどの大小さまざまなパゴダが、まるでミャンマーの人々それぞれの営みを象徴するかのように、力強く凛として立ち並んでいた。
第3日目

一日バガン観光を満喫した我々は、今回の旅の目的であるチン州のミンダという町に向かった。この町で2月20日チン族のナショナルデーにお祭りがあり、それを見学するというのが今回の旅の目的だったのだ。ミャンマーは連邦共和国であり、6州と6管区に分かれている。チン州はその中でミャンマーの西端にある州で、インド、バングラディッシュと国境を接している。ビクトリア山に代表されるような高い山々が連なる地域で、52種類もの支族が生活している。
ホテルで朝食を済ませた我々は、日が昇って早々ジープに乗って出発した。ジープはフロントガラス以外に窓はなく、吹きさらしである。天井にはビニールの屋根が付いてはいるものの、朝は寒いので吹き込んでくる風に震えながらひた走ることとなった。
道は舗装などほとんどされていないに近いが、どこからどこまでが道かは一応認識できる。山に入るまではひたすら荒野を駆け抜けた。見渡す限り荒野とヤシの木である。道は舗装されていないので、砂と土ぼこりですぐに埃だらけになってしまった。
山に入るまでにいくつかの町・村を通り抜けた。家々は壁が竹、屋根はヤシの葉というような造りである。道には犬がぼたぼた落ちていて(本当にぼたぼた落ちているのだ)ジープが通っても見向きもしない。道の真ん中に寝ていたときには、かわいそうだが無理やり起きてもらったが、それ以外はジープの上からだと生きているのだか死んでいるのだかまったく分からない。昼になると気温もかなり上昇し30度を超える。朝はあれほど寒かったジープの中も、半そでTシャツでないと乗っていられないほどになった。途中、大河を船でジープごと渡り、道なき道を進み、浅い川をジープでわたり山へと入っていった。山に入って数時間、6時を回ったあたりでようやく目的地のミンダに到着した。
ミンダはチン州第二の都市である。次の日にチン州の他の村を見学させてもらうこととなったのだが、他の村に比べると圧倒的に文明が発達していた。というよりも西洋化していた。村には一軒レストランがあり、そこには衛星テレビがある。この町一番のお金持ちの家には車がある(今回の旅でお世話になったジープもこの家のご主人のジープである)。大きな小学校もある。宿もある。
チン族は顔が日本人とよく似ている。肌の色は若干黒いものの、姿かたちはそっくりである。まずジープを使わせてもらっている家のご主人にご挨拶しにいったのだが、その家のご婦人などは色も白く、メガネもかけていて(メガネをかけているチンの人は後にも先にもこの人一人であった)本当に日本人そっくりであった。
この町には街灯というものがまったくないので、夜になると本当に真っ暗である。夕飯をレストランで済ませ、真っ暗な道で途中何度もつまずきながら宿に帰った我々は、地獄の水浴び(夜は本当に寒い)を済ませ、ゆっくり休むことにした。

舘 佳吾さんと佳文さんのホームページ「梟の旅路」