kitombo.com | ミャンマー友好の旅 | 2005年8月22日 
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ミャンマー友好の旅
「舘 佳吾 3」


8月22日

第4日目

 いよいよお祭りの日である。朝、町の広場で祭りの開会式があるので参加することとなった。開会式には百人を超すチン族に人々が集まっていた。どこにこんなにたくさんの人がいたのか不思議に思ったのだが、この日のために何日もかけて他の村から人が集まってくるのだそうだ。開会式では国の高官や村の代表が挨拶を述べ(長い長いお話で、こんなところも日本そっくりである)、1時間あまりで終わった。その後、我々は広場にある屋台での展示物を見たり、弓矢を体験させてもらったり、顔面刺青のおばあさん(チン族は顔面刺青で有名な民族である)と写真を撮ったりしながら広場を回った。ある屋台では民族衣装や民芸品が展示されていたり、ある屋台ではチン州の植物、農作物の展示があったり、また日本のお祭りの屋台のようにルーレットを使って賭けをする屋台もあった。どの屋台でも我々はたくさんのミャンマー人たちに囲まれて「これは知っているか?」とか「手に持ってもいいよ」とか「これは何でできているの?」「これきれい!」などと身振り手振りで会話することができた。本当に暖かい人たちばかりである。
 屋台を一通り回った後、我々はチン族の普通の村も見学しに行った。ミンダから車で20分ほど離れた村に行ったのだが、そこでは最初にロンジー一丁で子供を抱えた村長が出迎えてくれた。我々は村長の協力のもと、一人の若者に村を案内してもらえることになった。村は山の急な斜面にあり、我々は獣道のような道を進んで村を回った。チン族には巨石信仰というものがあり、巨石には精霊が宿っていると信じられている。今ではチンはキリスト教が主な信仰になっているのだが、巨石を集めた場所ももちろんまだ存在している。墓場を思わせるその巨石の山は、確かに精霊が宿っているような荘厳な雰囲気をまとっているのだが、人々はその石の上に座ったりしている。精霊が宿っていようが石は石のようである。あるいは座ることによって精霊を感じているのかもしれない。そんな彼らの様子を見ていると、信仰も生活の一部として脈々と受け継がれているのだろう、と勝手に推測してしまう。巨石はあるときには人々の椅子となり、あるときには動物の寝床になり、チン族の人々を見守り続けている。
 村で見る家々は高床式家屋で、隙間だらけの竹でできた壁にヤシの木を乗せただけの造りであり、ドアもない。家というよりもテラスである。人も犬も猫もそのテラスのような家で共同生活を送っている。
 村を見て回っていると、途中から小さな女の子が遠慮がちに木の陰からこちらを見ていることに気づいた。旅の仲間の相本さんがアメを差し出すと、これまた遠慮がちに受け取りこちらが食べてみると同じように食べた。するとたちまち満面の笑みである。私はこの国の子供が大好きだ。何も隠さず、不安なときには不安な顔をし、うれしいときは満面の笑みで自分の気持ちを表現する。初対面の外国人である我々に対しても、差別なく満面の笑みを分け与えてくれる。我々の国はいつ、この素直さを忘れてしまったのだろうか。いつ、子供からこのまっすぐな心を奪い去ってしまったのだろう。
 最後にわれわれは、見学させていただいた御礼として1000チャット(日本円にして約170円)村に寄付しることにした。すると村長はわざわざジープまでお礼を言いに来てくださった。お金は道路の舗装に使ってくださるそうだ。我々は村長と案内をしてくれた若者に別れを告げ、村を後にした。
 ミンダに帰り、食事をし、祭りに参加するときがきた。宿を出たときにはもうあたりは真っ暗である。星明りを頼りに何とか広場にたどり着くと祭りはもう始まっていた。広場には特設ステージが設けられ、まぶしいライトに照らされたステージ上ではチン州各地から参加しに来た民族がそれぞれの踊りを披露していた。民族衣装に身を包んだ子供たちが少し緊張した面持ちで民族を代表して民族舞踊を踊っている。
 我々が外国人として特別席に座っていると午前中に広場で少し話した英語が堪能なミャンマー人がやってきた。しばらく彼は舞台の上の踊りについていろいろ解説をしてくた。30分ほどしただろうか、彼は私に「ちょっと酒でも飲みにいかないか?」と言って、屋台に誘い出してくれた。
 一杯目はまずビール。ここら辺も日本と同じである。その後、彼の友達も片言の英語で会話に参加し、ミャンマーの黄色い日本酒のようなお酒(これは祭りのときによく飲まれるものだそうだ)で乾杯、ミャンマーラム酒、ミャンマーウィスキーと次々に飲み干し、会話も日本の教育からミャンマーのトイレについてまで、飲み物も会話もことごとく平らげていった。まるで何年も離れ離れになった兄弟の長年ぶりの再会のように、舞台をよそに大盛り上がりであった。時間はいつの間にか真夜中を過ぎていた。

第5日目

 いよいよミンダを発つ日がやってきた。前日の酒乱パーティーのせいで頭がひどく重たい。この日は行きとは別ルートでバガンに帰り、そのまま首都ヤンゴンのダゥキンキンラさんの家に帰ることになっていた。行きは大河エヤワージー川をフェリーで渡るコースを選んだが、帰りは川を渡らずに陸路で橋を渡るコースに変更した。このコースは川を渡らずにすむのだが、その分道が悪い。行きよりもでこぼこ道なのである。
 これが災いした。何せ、前日酒を浴びるように飲んだのである。頭は夜中寝ている間に誰かがこっそり石ころつめたように重たくゴロゴロする。おなかはひどく痛む。おまけに、昨晩意気投合した英語を話すミャンマー人をバガンまで乗せたのだが、その彼がジープに積んでいたミャンマー日本酒風お酒が悪路のせいでいつの間にかもれていて、もうジープの中は酒臭くてしょうがない。チョーカインさんと英語ミャンマー人は途中に二日酔いの生姜でできた薬を飲んで何とか耐えていた。
 そうこうして何とかバガンにたどり着いた我々は、途中シャワーを浴び(本当に埃りまみれになるのだ)一休みしてからバガン空港に向かった。そして3日間お世話になった運転手さんとの別れを惜しみつつ、ホームステイ先へと帰ったのだった。

第6日目

 いよいよ帰国の日。ホストのダゥキンキンラさんは前日から不在で最後のお別れができなかったが、家族と親戚とに最後の挨拶をして出発した。この日は午前中にシュエダゴォンパゴダというヤンゴンにあるミャンマーで一番豪華かつ有名なパゴダを見て、ガイドのチョーカインさんの実家に寄り、さらに時間があったらチョーカインさんのガールフレンドのうちの一人(?)の家にお邪魔させていただくことになってた。
 シュエダゴォンパゴダとは聖なるパゴダという意味である。ミャンマー人の間では、一生に一度はお参りに行きたい場所なのだそうだ。灼熱の太陽に一面大理石の床、そして黄金の塔。日本人が想像する仏教のイメージとはあまりにかけ離れていて、よく考えると本当にありがたいものなのか非常に疑問ではあるが、そんなつまらない意見はシュエダゴォンパゴダの圧倒的な豪華さ、壮大さの前では何の力も持たない。
 しかし、すべてが荘厳で皆が粛々としているかというとそうでもない。シュエダゴォンパゴダはバガンのパゴダ・寺院と違って、外国人の観光者よりもミャンマー人の巡礼者のほうが圧倒的に多い。お昼にでもなると巡礼者たちはお弁当を広げて屋根のあるところで昼食を始めるのである。警備をしている人も観光者向けに商売している人も、みんな昼寝をしている。これはちょっと見ものである。確かに真昼間にでもなると、一面大理石の床の上では裸足で歩くのは大変だし(パゴダでは必ず履物を脱がなければならない)、暑くてまともに動く気にはならない。みんな日陰に入ってゆっくりしているのである。なんとなく公園的な要素を持っているようである。
 シュエダゴォンパゴダを見た後は予定通りチョーカインさんの実家にお邪魔した。お母さんと妹さんが出迎えてくれたのだが、二人とも本当に綺麗な方で、しかも二人とも日本語が上手で驚いた。日本語を話すとなんとなく素振りも日本人に似ているように見えてくるから不思議である。あるいはミャンマー人は本当に日本人に似ているのかもしれない。
 リビングルームにはチョーカインさんの大学時代の写真や妹さんの写真などたくさんの写真が飾られていて、まるでアメリカ人の家庭に間違って入ってしまったような錯覚に囚われる部屋である。チョーカインさんの部屋には、日本語の本や雑誌(折り紙や料理の本まである!)、それにガイドという職業柄、ミャンマー各地の資料(しかも日本語に自分で翻訳してあるのだ)がたくさん本棚に並べられていた。さらに、ミャンマー各地の写真。中国との国境沿いの写真やチンの写真、マンダレーという地域の写真など本当にたくさんである。チョーカインさんの解説付きで写真をほとんど全部見終わった時には、すっかり出発の時間になってしまった。
 その後、チョーカインさんのガールフレンドの家に1時間ほどお邪魔した。ガールフレンド本人は仕事で出かけていたが(フライトアテンダンスをしているのだ)、ご家族が我々をもてなしてくれた。威厳があるがちょっと恥ずかしがり屋のお父さんと気さくでやさしいお母さん、陸軍で働いているお父さん似のシャイなお兄さんにお母さん似でやさしい妹さん、本当に親切で優しい人たちだった。おかしやフルーツなどを食べて食べてと言って出してくれ、帰りにはパパイヤのゼリーを包んで「後で食べてね」といって渡してくれた。ずーと喋ってくれなかったお父さんは、最後に写真を撮りたいという申し出ると、うれしそうに写ってくれた。車で出発するときには我々が見えなくなるまで、ずっと手を振って見送ってくれた。まるで息子、娘を送り出すように。
 そしてミャンマーともお別れのときがきた。ずっと一緒に我々の水先案内人となってこの冒険を支えてくれたチョーカインさんともお別れである。しかし、そのような悲しみの中再び戻ってきたヤンゴン国際空港は決して以前のように頼りなげではなかった。最初に感じたあのかび臭いような感じはもうそこにはなく、我々を暖かく送り出してくれようとしていた。我々は様々ミャンマーの人々の暖かさを背中に感じつつ、出発ロビーへと向かったのであった。

旅を終えて

 今でも旅の空気やにおいをありありと思い出すことができる。場面場面を取り出し、取り出した細部をデジタルカメラのようにさらに切り取り拡大することもできる。これほど私の記憶に深く切り刻まれる旅はこれまでなかった。日記形式にこの旅行記を書いたのは、この旅で何を感じ、何を思ったかを正直に見つめ直したかったからである。
 冒頭でも書いたように、この旅は私にとって冒険であった。豊かさを求める冒険であった。しかし、旅をする途中でそのような動機はどこかに吹き飛んでしまった。もう少し正確に言うならば、この国の人が仏教が生活の一部になっているみたいに、旅の中でこの国の豊かさはこの旅の一部となっていた。
 旅を終え、日本に帰ってきたときはもう夜の9時だった。成田から帰る電車の中、私はその電車の中に何かの薄暗いものを感じた。最初にヤンゴン国際空港で感じた薄暗さとは違った、何かよどんだ空気のようなものを感じた。なぜだろう、と思って注意深く辺りを見回してみると、私は人々の表情にある薄暗さを感じてたことに気づいた。よくよく見てみると人々があまりに暗い顔をしていて、我々が日本を離れている間に日本で何か大きな事件などがあったのではないかと思ったほどであった。
 ミャンマーで我々を迎えてくれた家族は皆、我々を自分の家族同然に迎え入れ、送り出してくれた。チン州に行く途中に寄った喫茶店(近くの人々やドライバーなどが休憩や昼食に使う休憩所のようなお店)でさえ、店の人でさえまるで古い友人のように話しかけてくれる。改装中のお店の前で一緒に写真を取ったり、面白い果物があるといって皿一杯に果物を持ってきてくれたり、本当に暖かいのだ。
 私が求めていた「豊かさ」とは何だったのだろうか。ミャンマーという国は確かに、衛生環境は悪いし、停電もしょっちゅうである。長らく続く軍事政権のせいで経済は疲弊しきっている。あたりは砂埃だらけで水もお世辞にもきれいとは言えない。それでも、人々は底抜けに明るい。誰一人、日本の電車の人々のように暗い顔をした人はいない。
 答えなどないのかもしれない。しかし、私の心の一部はすでにこの国に住み着いてしまったらしい。もう一度この国を訪れたい、と私は思う。


梟の旅路

舘 佳吾さんと佳文さんのホームページ「梟の旅路

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