宝島の地図
「時間の地図」
平石 知良
2月7日
奈良へどうやって行こうかと友人と相談した結果、「車」で行こうと決めた。
イワクラ学会出席のためである。
早速一冊の道路地図を買い求め、この道からあの道へ、ここで「高速道路」を乗り換えてと、本に栞を差し込んで準備万端怠りなく集合場所で友人の車に乗り込んだ。
助手席の前に、小さなテレビ画面「カーナビ」である。
右へ曲がれ、左を進めなどと音声で指示してくれる。言われるままに走ること七時間「目的地に着きました」とメッセージが流れたときは、やっと着いたという安堵感・達成感よりも、「良く出来たものだ、感心感心」という、ご理解いただけないかもしれないが・開放感があった。
日本の端っこから中央部へ行くのに、同じことだが中央部から端っこに行くのに、「公共交通機関」と呼ばれる列車・航空機・船・電車を利用しようとすると、その座席を確保するために予約をせねばならない。
その予約が、旅人をガンジガラメに縛りつけてしまう、時間に。
その上、それぞれの「公共交通機関」の運行ダイヤは独立していて、関連性が全く無い。
その何本かのダイヤを乗り継ぐには、「待ち時間」が生じる。
待つには長く、別行動のオプションを入れるには短いという、絶妙に半端な待ち時間が。
しかし、ガンジガラメであればあるだけ確実に目的地に着くのだから、スケジュールに何一つ隙間が無くオプションの入り込む余地が無ければ無いほど確実性が増すのだから、「待ち時間」をスケジュールの一部として消化しなければならない。
時には、航空機に乗っている時間よりも長い待ち時間・矛盾の固まりのような時間を「電車だけで行くよりも早いのだ」と呟きながら耐えていたのである。
その拘束が無くなったという、開放感があったのである。
「以遠力」という言葉は無いかもしれないが、奈良へ行くのだったらもう少し足を伸ばして名古屋までとか、帰りに神戸によってとかのスケジュールのアドリブが可能になった、「以遠力」を得たのである。目的地まで七時間、それ以外の時間を自由に使える。神戸・何時間何分、岡山・何時間何分の間に入れたスケジュールは、スケジュールとしてこなさなければならなかった。例えその場所が気に入ろうとそうではないとに関係なく、時間を潰していたのが、気の向いた場所で気の向いた時間が使える、時間の「以遠力」をも得たのである。
目的地まで七時間、それ以外の時間を自由に使える、という開放感。
車を駐車場に置いて会場へ向かいながら、思い当たることがあった。
「時間の地図」。
自分の現在地と目的地を示すのが、地図の役目である。その上で、行動計画を立て、計画通り行動しているかのチェックのため、何度も何度も地図を広げたりページをめくったりしてきた。この広げたりめくったりの煩瑣な行動を、カーナビが代行してくれる。
土佐中村から奈良という行程は、地上での平面の位置関係をどのように辿るか、とも言い換えれる。では、この位置関係を時間に置き換えればどうなるのか、と思い当たったのだった。それは、歴史ではないのか。カーナビは、パソコンである。
現代は、情報社会だという。情報は、資産なのだと。歴史も情報ではないか。
日本史は、最も歴史資料の多い大系の一つだろう。旧石器時代から50万年、縄文文明から14000年、膨大な量の資料の存在。利用の仕方は、上手なのか下手なのかは別にして。
この資料は、地図の等高線や海岸線に当たる。
歴史という地図の膨大な資料は、広げたりめくったり、解釈の論争をしたりを、繰り返してきた。ある時は、資料の真贋の論争が持ち上がったり、捏造であるかないかで揉めたり、捏造が実際に行われたり、間違いなく過去に作成された資料ではあるが、作成された時点で既に捏造されたものだと判断されたり、いや捏造の部分は確かにあるのだが、作製前の事実を含む記事もあれば、作製当時の時代を写している資料となり得るものだ、とか、資料はさまざまな価値判断を下されてきた。
この膨大な資料を内蔵し並べることによって、ページをめくる手間を省くことが出来れば、歴史の重層的な構造が明らかになりはしないか。資料への複層している判断基準も、ある一定の方向付けが出来るのではないだろうか。
学会に参加する皆様方の資料を学会の共有のものとして、誰もがその資料を自由に取り出せる方法を確立すれば、考察や観察の方法に迷うことも無くなるだろう。
何故なら、古代の文明に関わろうとする人々に勘違いが生じている、と思えるのだ。
それは、目的と方法の混同である。
何ゆえに「古代文明」を探しているのか、の問いには十人十色の回答があるだろう。
しかし、「この遺跡の第一発見者は私です。この向こうの高原にもある筈です。」と言ってマスコミにアピールして、時の寵児になっていく自分を停めようともしない。
歴史資料を発見しても、自分の持ち物として囲い込んでしまう。
そんな競争が狂騒となって、捏造が生まれる。迷惑な話だが、真実である。
あくまでも主人公は、「古代文明」ではないのか。讃えられるべきは、「古代文明」であってその発見者ではない、という当たり前のことが忘れられている。
目的が評価されずに、方法が讃えられている。この混同を防ぐためにイワクラ学会のこれからのプレゼンテーションは、論文もビジュアルも全てCDロムを基準とし、そしてその集合体としてのライブラリーを作り誰もが利用できる体制を組み上げて行けば、「時間の地図」が出来上がる。
「古代史に何を求めていますか」と問えば、数多くの彩り豊かな答えが返ってくるだろう。
その回答が、「目的」であり回答の織り成す多様性もまた、私たちが次の世代に申し送る「時間の地図」なのである。
カーナビの無い旅程は、道に迷うことを織り込んでいた。地図は上が北と決まっている、磁石で確かめ標識を読みながら迷ってしまうのである。最後は、道行く人にたずねる。
しかし、方言が解らない、否、正確に言えば分かりあえない。とどのつまりは、タクシーで先導してもらう。苦しかったかと問われれば、楽しかったと答えるだろう。人や文物に触れている、ここにも懸命に生きようとした人々の脈々と現在に受け継がれてきた歴史を尊びながら生きていこうとする人たち・私たちと同じ仲間が居るという手触りの確かな暖かい感触は、旅の醍醐味である。
カーナビは良い、迷うことも素敵だ。私を旅出させる、「古代文明」に感謝。
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