特別寄稿
「福の神のご利益(3)」
油棚憲一
7月1日
その時点で私は一寸した不安が残った。これ又不思議な事に、依頼された表題の『諸手船』と言うのは、出雲の美保関神社の恵比寿様の毎年十二月三日の「船祭」に使われる舟の事である。先ずは早やくも恵比寿様のご出現。唯その不安と言うのは、或る文献によれば「八人で漕ぐ」とあり、別の文献では「漕ぎ手は十人」とあるので迷った事であった。然し原稿は大至急に、との事。私は文献の内信頼の置ける文献の記事に従って「八人で漕ぐ」の線で原稿を送った。然し確認の必要があったので、一月十五日発行と言うその会報が手元に届いたら、これを美保関神社に送って、問い合わせをしようと思った。結果的には「漕ぎ手は十人」とあるのは、「八人で漕いで、更に二人が舵櫂を使って舵を取る」事を言おうとしていた事と判ったが、その時点では未だ結論が出ず発刊の一月十五日を待った。
一月十七日にその会報の郵便は私の家のポストへ届けられた。私は早速これを開いて、一部を出雲の美保関神社に送って先程の疑問の点について問い合わせしようと思ったのでした。処が同じその時点で別にもう一通、大型封筒がポストに入っていたので、その差出人を見て私は驚いた。何と、「出雲美保関神社の宮司」横山直材先生からのものであった。私は驚きつつも早速開封して見たら何と、比較的多くの資料が入っていて、それが「諸手船」に関するあらゆる資料だったのである。「何故?」と私は思いつつ、横山宮司先生からの直筆の手紙に目を通して、やっと頷けた。
ここで「諸手船」それ自体に関する歴史書は一応割愛せざるを得ないが、これは神話時代の恵比寿様即ち事代主神の話に繋がる古代船であり、四十年毎に復原を繰り返して今日まで伝えられている「国の重要文化財」の一つである。このため、復原の方法について、関係者の間に異論が生じ、責任者の立場にある宮司としては、古代からの伝統を守り通す義務も有り、軽率な判断によっての方法にて復原しようとする異端論者との間にトラブルが生じたのであった。この点で常々古代船の研究をしている私に、応援を求めて来たのであった。
私は資料も熟読させて頂き、トラブルの内容も充分把握した上で、宮司のお考えと全く同意見を持ち、早速意見書を書き、これに署名捺印して関係者に送った。結果は幸にして宮司のお考え通りに復原船が建造される事になった。私は胸をなでおろした。
それにしても不思議な話ではなかろうか.一九七七年一月十五日刊のその会報も、又同日付の美保関神社宮司横山直材先生からの手紙も私は今でも大切に保存している。あれから四半世紀も経った一昨年、東京で私を囲む会のグループが、私を伴って出雲旅行を楽しんだ際、一同が何と驚いた事に、参詣者があれ程多く、非常にご多忙である横山宮司先生ご自身が、島根県文化課長先生と二人で、私達の一泊二日の出雲旅行の全行程に同道して案内して下さった事をみても、その時の私の協力を現地では如何に高く評価して下さっているかが知られよう。有難い話である。
話を前に戻せば、私が関与しての復元「諸手船」の造船は順調に進んで,小舟のため三ヶ月余で進水式となり、その式典に私も呼ばれた。私は気持ちが余りにも出雲へ引かれていた為、喜んで出雲迄行き式典に参列した。そして美保関神社と出雲大社へ、即ち恵比寿様と大黒様へ参詣して来た。その時私は何と言う事なしに気が引かれて「打出の小槌」をお土産に買って来て私の勉強室の書棚に下げて飾った。
後で考えると、この「打出の小槌」を本当は私の家の部屋の金庫の有る所へ飾れば良かった、と若干の後悔がないではなかった。というのは、この「打出の小槌」がその後余りにも望外な「福」を呼んでくれたからである。唯、これを飾ったのが私の学術研究費だけが入って来たのであって、私自身が金持ちになれた訳では無かった、という次第。
その時点で私は既に永年勤めていた国立大学の方は定年退職して、前述の私立大学の教授に転職していた。国家公務員で無くなり、自由な民間人になった為に声が掛かって来たのであろうが、「打出の小槌」を勉強室へ飾った数日後に私の所へ楽しい電話が入って来た。
「先生に喜んで頂けるお話ですので六本木のIBM本社にご足労願いたい」
|